2009年9月30日 (水)

秋雨@都内某所へ「ツーキニスト」(笑)

 秋雨rainをついて出かけてきました。以前「ツーリングに雨は関係ねぇだろ」とか言ったらしく、その言葉に衝撃をうけたらしい自転車仲間は、無謀にも豪雨ツーリングを決行したもんです。たまには雨にうたれながら走るかconfidentDscn4973_066  

 というのも、じつは半分くらい自分への言い訳で、本日はゆるさんのハトコでサイクリストの美女virgoと会うからなんでした。元ミス着物の梅津香保里さん、出版プロデューサーというか編プロの社長さんです。やっぱここはひとつ、雨でも自転車で行かんとなーcat。夜までrainやみそうもないんで、えらい大変でしたけどbearing

 彼女のお連れ合いは、この本の著者。

51lb4dhppcl_2  自転車メカについては自転車屋さんなみだそうで、頼もしいっスね。仕事のほうも自転車のほうも、同じ世代でできるのが楽しいsmile。電子出版だけでお蔵入りしていた小説も読んでいただけることになりました。そう、作品というのは誰かに読んでもらうだけでいいんです。

 小説であれノンフィクションであれ、いや絵画でも漫画でも誰かに観てもらえばいいんです。そこから何かが生まれるはず。Dscn4974_067  

 というわけで、本日は雨のツーキニスト(笑)でした。あちゃッ、cameraフラッシュ炊いちゃったwobbly(写真は荒川記木根川橋)。

 なぜか写真に凝り始めたゆるさんとは違い、ワタシのはいい加減というか。これでも旅行ライター時代にゃ、半分はカメラで食ってたんだけどねぇ。ま、アナログ時代の話っスけど……。ではまたcat。 

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2008年12月 9日 (火)

お知らせ@原作漫画の発売

 お知らせ(広告)です。明日(12月10日)、ワタシが原作を書いた漫画アンソロジー「世にも奇妙な日本史伝説」 (宙出版、420円)が全国のコンビニで発売になります。立ち読み、ご購読、よろしくお願いいたしますm(_ _)m2667

 もともと、このブログは自作の歴史小説(電子出版)を告知するために作ったんでしたが、なぜかほぼ全面的に自転車生活bicycle、自転車普及活動のブログになりました。PNで書いてる本やVシネマはちょいヤバめだし、たまにプロデュースする本も元ヤクザとか元過激派などとヤバめhappy02

 というわけで仕事の宣伝も自粛してきたわけですが、歴史ジャンルは論争的な側面もあるので、本名というか横山茂彦名義となります。これからは本腰を入れて歴史探求に取り組んでいきたいと思いますので、よろしくお願いします。といっても、のっけからトンデモ説の漫画アンソロジー。ヤバめという意味ではかわりませんけどね。軽ぅーい気分で、beerでもやりながら読んでつかぁさいcat

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2008年6月11日 (水)

テレビ出演

Dscn1650  テレビの追加収録movieに行ってきました。ジャケット着用なので、bicycleではなくsubway。最近乗ってないんで、乗り方(切符の買い方)がよくわからん(苦笑)。行きは座れたけど、帰りは大量の通学生たちがムンムンで思わず途中下車。自転車で打ち合わせに行くといつも驚かれるが、もうワタシはラッシュとか無理。こんなのを毎日毎日……、日本のサラリーマンて凄いなー、と思うよ。

 さて、すこし愚痴らせてもらいまひょーか。自分の見解を曲げてまで、テレビ局と制作会社の言うままに「歴史研究家」を演じたんですからpout。今回わかったことは、シナリオが出来てる(セリフが出来てる)番組では、プロデューサーの言いなりになるか喧嘩して降りるしかない、内容的なことで抵抗しても無駄、ということ。で、ワタシは番組を降りる気骨がなかった、というだけのことsweat02

 テーマは上杉謙信女性説なんですが、ワタシの主張は江戸時代に捏造された人物像を排除することで、はじめて謙信という人物が明らかになる、と。ところが番組のストーリーは、その江戸時代の虚像を前提にしながら、実像にせまるという矛盾。いや、おもしろくも無理を通すんです(苦笑)。ま、このテーマは長い時間をかけて取り組んできたので、女性説を取り上げてくれるだけでもOK、しかし……、とほほ。7月1日放送予定! ちっともためにならんけど、笑えるかもしれん。このアホ(ワタシ)は、真面目な顔して何を見当違いなことほざいとんかい(笑)とね。

 今日はひきつづき、Vシネマのシナリオの打ち合わせ。こちらはモノホンのヤクザだけど、「親分、いや社長! 19日出発なんで、時間的に無理が通りません」と断るつもりだった。で、ツーリングの餞別じゃないけど「ツーリング頑張ってね」と前金でギャラをいただき、仕事もシナリオの手直しということなのでOK。何だか映像人になった一日、いや、映像人たちに翻弄された一日でしたっ。

※ワタシの上杉謙信女性説を本気で読みたい方は、ここで売ってます。ブログ内の記事はこれこれ

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2008年4月 4日 (金)

読み直す上州無宿木枯し紋次郎

 明日、上州路ツーリングです。このかん笹沢左保の原作を読み直しながら、一世を風靡したTV版(市川監督)についても、このサイトを参考にいろいろと考えてみました。Dscn1050

 夜十時という時間帯にもかかわらず、視聴率は30%を越えたといわれ、「あっしには関わりのないことにござんす」が社会的ブームにもなった秘密。上記サイトの管理人さんが読み解いているように、当時は経営が左前になっていた大映の熟練スタッフの参加(とくに脚本とカメラワーク)、巨匠市川昆(字が出ん)中村敦夫の大抜擢、ほかにも当代一線級の女優陣の参加(これについては、ブームになってからの売り込みも多かった)など。

Dscn1051  こうした制作裏舞台の分析によって、当時(今も)言われた「全共闘運動の終焉、70年安保の挫折による時代のシラケ気分にテーマが合致した」だけではないのが判る。作品自体の魅力が今日もいささかも衰えていないのもその証しであろう。

 ただし、この「シラケ世代」「三無派」(無関心・無感動・無気力)という時代の雰囲気を、単なる挫折や無力感に帰してしまうと、ある意味で今日の停滞の始まりだったあの時代の意味を見誤るのではないか、とわたしは思う。そもそも全共闘運動にしたところが、大学解体や自己否定という意味では最初から挫折した運動(先に何があるのか、本人たちにもわかってなかった)なんであって、そこに祝祭のような空間が出現したから人が集まったにすぎないのだ。

 その挫折を物理的に確認(バリケード解除)し、爆弾闘争と銃撃戦も破滅に向かって進み終えた(連合赤軍)とき、当時中学生から高校生になろうとしていた私たちの世代にはすべてが見えた。と言い切ってしまえば不遜だろうか。一般論ではなく、私の例にしぼって「木枯し紋次郎」を圧倒的に支持した気分を述べておこう。

 前にも書きましたが、三船敏郎ファンだった私の父親は紋次郎を受け入れられなかった。理解不能だったと言ってもいいだろう。批評家のなかにも、紋次郎の殺陣を「基本がなっていない田舎剣法」だと指摘する声は少なくなかったが、これは私にとっては笑うべき批判だった。高校の体育の正課が剣道だったこともあり、友人の知り合いの剣道家に真剣を(だいたい1㎏あります)持たせてもらったことのある私には、三船敏郎の「荒野の素浪人」の殺陣のほうにどうしても納得のいかない軽さ、竹光としか思えない演技の軽さを見ていたのだった。現実のチャンバラとは違う、と。したがって紋次郎の評価をめぐる議論は、私と父親の現実認識をめぐる闘争でもあった。

 私の父親は特攻隊崩れというか予科練あがりというか、要するに戦時教育をそのまま引きずっている人で体罰主義者でもあった。私と同世代の男性が「精神的な父親殺し」を体験している(と思う)のは、父親たちの体罰に対する嫌悪とともに彼らの価値観にまで刷り込まれた古い精神主義、頑なに狭い視野(不可能な世代間の相互理解が生じる)に対する批判。なのではないだろうか。ぎゃくに言えば、古い体質の頑迷な父親たちとの闘いによって、われわれ(少なくとも私)は自立できたのだとも言える。

 60年代のロックンロールおよびその亜流、ヒッピームーブメントや全共闘運動いらい、古い権力が壊滅するまで(たぶん高度経済成長の挫折)、旧社会の権威との無意識な闘いの最後が「シラケ」であり「三無派」と呼ばれた私たちだったのだと、いまはそう思える。以後の世代も時には私たちのように無意識に闘い、あるいは逆に父親の権威を否定した次世代の父親たちによって作られたニューファミリーの中で、自分が闘うべきものを模索した。のではないか?

 紋次郎に話をもどそう。少なくとも私の父親は、紋次郎現象をまったく理解できなかった。当時の私はそれを理解させるために、現実を描けばこうなるはずだと、そう説明したように思う。美化されない、ありのままの現実。ある意味で、それは私たちの世代が見てきた「社会は醜い」「理想なんてウソだ」「悪いヤツが得をする」「妙なことにかかわりにならんほうがよい」を、紋次郎の世界が体現していたのだ。

 同時にそれは、父親以前の世代に対する批判であり、社会に対する根源的な疑問でもあった。ただ単にシラケているのではない、すべてを見てきたわれわれにしか判らない感情なのだと、そのときも思っていたはずだ。もの心ついた時期から茶の間にはテレビがあり、勉強部屋の深夜ラジオで日本はおろかアメリカの事件やヒットチャートまで知りえた世代なんである。そのあまりの情報量の多さに疲れ、殺伐とししてゆく感性を癒すものがあるとすれば、現実を現実としてありのままに描こうとする「木枯し紋次郎」だったのではないか。

 そこには頼るべき理想も正義もなく、ただひたすら欲望と裏切りが渦巻いている。じっさいに悪徳は生き延びるし、善意は踏みにじられる。その酷薄な人間たちの惨劇を横目に、つねに関わり合いを避ける紋次郎が最後は騒擾に引導を渡さなければならないのは、彼に残されているわずかな優しさ。そのわずかな優しさが、みずみずしい湧き水のように画面に刻印される。それを人間の希望と呼ぶべきなのかどうか、わたしは知らない。

 

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2008年3月 3日 (月)

木枯らし紋次郎を再読

Dscn0603  午前中、某出版社へ。めでたく校了じゃ(嬉々)。新作の打ち合わせが残っているものの、これで3月はほぼ自転車三昧の予定となりました。ツーリングが2本、ポタはほぼ毎日、あとは集団ポタの日程だけ。

 タルサさんと最初にお会いしたときに、市川昆監督逝去の話から木枯らし紋次郎のことに話題が。そういえば、市川作品というよりも笹沢左保小説、そして中村敦夫の一世一代の作品とも、あるいは上条恒彦の熱唱ともいうべきか。むしょうに観たくなって、DVDを手に入れるよりも「そうだ!」小説を読み返してみようと思ったんでした。

Dscn0605  で、このに。海坂書房のいわれは、藤沢周平の作品に由来。つまり荘内藩のことです。古本屋は偏屈な自転車職人同様、店主がお高くとまってる店が多いのであまり好きじゃないんですが、この店は例外。気さくで話も楽しい人ですね。『赦免花は散った』をゲット。店主と「時代小説の書き下ろしがブームだけど、時代考証のいい加減なのが多くて」などと、笹沢作品の史料的なアドバンテージを話し合う。池波正太郎は犯罪人を通して人間の業と情、そして悲しさを描いたが、笹沢左保は欲望と暗部を描く。描かれる虚無は価値の相対化であり、頼るべき正義の消滅なのだ。

 ところで、タルサさんが上州新田郡のここにツーリングすることを考えてるそうで、私もそのときは見送りではなく同行するつもりなんです。Dscn0608

 歌詞の一部を抜粋してみましたけど、ほとんどツーリングの歌ですね。紋次郎が無宿渡世(旅人)だから当然なんだけど。

Dscn0604  都心で見た旧車、現役だね。

Dscn0606  前のおとうさんのフレーム、トップチューブがモールトンみたいに二重パイプ。でもって、ブレーキはハンドル上部、ドロップのアーム部には何も着いてないの。初めて見ました。ではまた。

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2007年7月 4日 (水)

新刊・北越女人戦記第一部第五章「春日山入城」

いよいよ「北越女人戦記」第一部の完結です。販売サイトは↓。

北越女人戦記・第一部第五章「春日山入城」

http://www.digbook.jp/product_info.php/products_id/8730?osCsid=08d3c12a0e64d1e83f83a502c2570fab

(抜粋)

 この年の十二月、直江実綱や斎藤朝信らを先頭に、景虎は四千の兵馬をひきいて春日山城の城門を破った。
 山頂の屋形に陣を張る上田勢を前に、大見得をきって叫ぶ。
「やあやあ、わが兄上越後守護代長尾晴景様の名を騙り、府内を混乱に陥れた奸臣たちに告げる! われらは越後守護上杉定実様の名代として推参した者。すでに万軍の兵がわれらを供奉し、勝敗は決してござる! 名を惜しんで戦う意志あれば、この景虎がお相手しよう!!」
 この時すでに大熊朝秀の手配で、上杉定実が老体をおして春日山城内の晴景と談合に入っていた。景虎を晴景の養子にする形で和解し、兄が妹に家督を譲るのことである。
 勢いを得た景虎は、みずから城門の櫓に立って上田勢に最後通牒を申し渡した。
「もし、心あらためて越後守護定実様の命に従う者あれば、すべからく所領の安堵し、忠君の者として称賛されるべし。やあやあ、降伏されよ! われらは今宵にも総攻撃の用意あり!」
 翌日、宇佐美定満らの上田勢は武装解除して春日山城を下りた。諸公に奉じられて景虎が入城したのは、年末のことだった。
 久しぶりの兄妹の対面に、景虎はあえて騒乱の裏舞台を口にしなかった。
「そのようにやつれられて、まことにおいたわしいことです、兄上様。わが思慮と武力が足りぬばかりに、春日山城を奸臣どもに乗っ取られ、まことに申し訳ない次第でした。このうえは、兄上様の子として忠勤に励み、越後一国の安寧のために働きます」
 と、景虎が一方的に言上した。
「兄上様、ならびに母上様の諫言にもかかわらず、景虎は上田殿とのことをなおざりに、短慮なことばかりしてまいりました。わが非、もって責められるべき。どうかどうか、この景虎をお導きください」
 まるで神仏に祈るかのような言上に、やつれ顔の晴景は頷くばかりだった。

※上杉謙信女性説については、こちら↓を御照覧ください。

http://www.digbook.jp/product_info.php/products_id/8523

まぁ興味があったぞ。という方はクリックを。

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2007年6月18日 (月)

新刊・北越女人戦記第一部第四章「叛徒征伐」

「北越女人戦記」第一部第四章「叛徒征伐」を電子出版しましたのでお知らせします。

http://www.digbook.jp/product_info.php/products_id/8671

以下、本編より抜粋。

 栃尾城にもどったある日のこと、午睡を終えた景虎は美しい笛の音を耳にした。
 みずから琵琶弾奏を嗜み、歌舞音曲に心を癒すことの多い彼女は、誘われるように縁側に歩み出ていた。抜けるように高い天空がおだやかな光をふりまく、晩秋の昼下がりである。
 なんと風雅の趣ある笛よ……。景虎は思わず縁側から背を伸べてみた。
「誰かある! あの笛の音は?」
 いつも近侍している小島弥太郎らの姿は見えなかった。笛の音は山裾のほうからだろうか、遠く響いてくるような音色である。
 その音色に興味を惹かれた景虎は厩におもむくと、手ずから馬を引き出して騎乗した。遠くからの笛の音は複数の音色に変わり、あたかも彼女を招くがごとくに近づいては遠ざかるのだった。
「はいっ!!」
「いずくに行かれます、郡司様。お供衆は……?」
 大手門に馬を駆けさせると、景虎は追いすがる城兵たちを制して城門を飛び出した。
「遠乗りじゃ、供はいらぬ!」
 と、景虎は勢いよく城門をあとにした。
 山裾にまわり、馬を止めて耳を澄ましてみる。栃尾城裏手の鋸山から南に向かう街道が俯瞰できる場所だった。馬上に背を伸ばすと、わずかに行列の最後尾が見えた。
 ちょうど南からの風に乗って、澄んだ音色が間近に感じられる。景虎は空を舞うように馬を疾駆させていた。
 追いついてみると、思ったよりも大人数の行列である。荷駄の者たちは景虎に気づいても、知らぬふうに私語している様子だ。景虎はいななく馬を操りながら、行列の者たちを問いただしてみた。
「この行列の者ども、待て、待てっ! いずれの者にやあらん!? 関所の横目(役人)からは何も報告がないぞ」
 いくら誰何してみても、行列の者たちはまるで幻のような風情で、景虎に返答しようとはしないのだった。
「商人頭は誰じゃ? 行列の長(おさ)は名乗り出よ!」
 などと糾問しても、糠にクギの反応である。景虎はやむなく行列の中ほどまで馬を駆けしてみた。
 これは、嫁入り行列……? 大きな荷駄の列に隠れるかのように、行列の中ほどには花嫁の騎馬があったのだ。
「この嫁入り行列、どこから来たのか!? どこまで行くのです?」
 ややあって、年輩の武士が口を開いた。
「われらは越後府内からの者。これより上田へ参るところじゃ」
「府内からじゃと!? 上田へ?」
 景虎は意外な返答に驚いた。
「府内からであれば、来た方角がおかしいではないか。上田の誰のもとに参るのです!? あの嫁御はいずくの姫ですか?」
 景虎が立ちはだかろうとすると、年輩の武士は面倒くさそうに返した。
「上田様の御召じゃ。これなる姫君様、上田は坂戸城の長尾政景様が側室として召されたのじゃ」
「政景殿の側室……?」
 景虎は思わず顔色を変えて下馬すると、年輩の武士に詰め寄っていた。武士の従者たちを押し退けながら問い糾だす。
「政景の御台所はわが姉上、側室のことなど私は聞かされておらん。さては、政景殿は勝手な婚儀で国人衆を味方に付ける所存か!? 聞き捨てならぬぞ、どこの姫御じゃ」
「この婚儀の次第、御上の思し召しでもある。上杉定実様の御下命なり!」
「定実様の? では訊く。わが兄上様、府内の御屋形様の御意向は如何に?」
 腰の太刀に手をかけながら、景虎は馬上の花嫁を凝視した。そのまま景虎は、花嫁の顔を覆っている白布に手をかけていた。
「待たれよ、狼藉はゆるさぬ!」
「どけえっ!」
 花嫁の顔と髪を覆っている白布をはぎ取り、景虎は警護の兵たちと揉み合いになったのだった。
「こ、この者は……!?」
 そこで景虎は目覚めていた。たったいま眼前にあった花嫁行列は、午睡のつづきの夢だったのである。
「いかがされましたか? 御大将」
 と、弥太郎が廊下から声をかけた。
「な、何でもない……」
「大変な汗をかかれておられまする。ささ、この布を」
「うむ……。府内の兄上様から、何か言ってきてはおらぬか?」
 首すじの汗を拭いながら、景虎は縁側の外を見渡した。
「いえ、本日は飛脚はござりませぬが」
「そうか……。かねてより、新兵衛に申しつけておった上田攻めの机上演習をしたいと、
皆の者に申し渡せ。皆が集まりしだい、会所の広間で行なう」
「軍議にござりますか?」
「兄上様から御下知あれば、すぐにも攻め入る準備が肝要じゃ。上田の政景、いかなるこ
とがあっても討ち取らねばならん。あの者を生かしておくわけにはいかぬ」
 と、景虎は太刀と脇差しを身につけた。
 景虎が夢の中で見た上田へと向かう馬上の花嫁は、彼女自身だったのである。

↓上杉謙信女性説も併せてお読みください。

http://07494.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/post_0370.html
http://07494.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/post_b6bf.html

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2007年5月29日 (火)

上杉謙信女性説 補論

『北越女人戦記別巻 上杉謙信女性説について』(下記URL)では、死因と不妻帯の合理的説明という観点から論点を構成しましたが、じつは本文に収録しなかった史料もあります。今回はそれらを少々、紹介したいと思う。

別巻の本体(でじたる書房)
http://www.digbook.jp/product_info.php/products_id/8523
別巻の紹介記事(本サイト)
http://07494.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/post_0370.html

 状況証拠の積み重ねが結論を左右する。これは裁判のみならず、文献史学においても援用される方法です。解釈の分かれる史料を状況証拠に「……だが不明」とするのか「……と推論できる」とするのかは、歴史家の研究態度や立場(研究環境)にもよりますが、私の場合は作家なので制約なく当該史料を提供することにしましょう。
 そのひとつは、長尾景虎(上杉謙信)の願文です。

「……人王継代之初神武天皇以来十四代仲哀天皇、后神功皇后、摂政即位元年辛巳治六十九年、春秋百廿載、女帝始祖、当後漢建安六年庚辰年十月辛丑日、皇后召具住吉・諏訪二神而、忽化男形、責三韓・新羅・百済畢、御帰来筑紫、王子御誕生、応神天皇・豊前国馬城郡宇佐八幡大菩薩是也、元慶七年癸卯被移雍州男山石清水、遙至于東海相州鎌倉、勧請其流、号鶴岡若宮八幡宮畢、先代九世之初、征夷大将軍源頼朝公崇之而、奇妙神助有之云々……」
 抜粋した願文は、千葉県妙本寺に伝わる永禄四年二月二十七日付(「上越市史」中世編258 )で、長尾景虎が小田原攻めに先立って鶴岡八幡宮(鎌倉)に奉納したものとみて間違いないでしょう。
 簡単に訳せば、

 神武天皇から十四代目の仲哀天皇の后である神功皇后は、辛巳六十九年に摂政に即位し、百二歳まで生きた初代女帝である。後漢建安六年の庚辰年十月辛丑の日に住吉大社と諏訪大社に詣でましたところ彼女はたちまち男性化し、三韓を征伐して帰朝しました。このときに皇太子が誕生し、大分の宇佐八幡宮に祀られる応神天皇となったのです。元慶七年の癸卯(平安時代前期)に山城国の石清水神社に移され、その後はるか東海の鎌倉に移されました。源頼朝公が鶴岡八幡宮と号して奉ったところ、奇妙にも神の加護があったということです。←こーんな感じ?

 さて、ここで問題なのは「忽化男形」(たちまち男性化した)というくだりです。
 住吉と諏訪の神に祈願したところ、神功皇后がたちまち男性化し、三韓征伐に成功したというのです。これを女である長尾景虎が「たちまち男性化」することを祈願した。と、解釈することも、あながち的外れではないのではないか?
 ただし、この願文は鎌倉(鶴岡)八幡宮の由来を建国神話から述べたて、引用しなかった後段は長尾氏の関東への縁、ならびに自分(景虎)の祖霊を敬う信条を述べていることから、かなり形式的な内容とも解釈できる。いずれにせよ、景虎が「男性化」と記していることは事実なのです。
 つぎに、別巻のなかでも指摘した盟約する関東諸公の夫人に宛てた書状から。
「返々、そのくちてきのひうりにのられ候ヽ、たしかわたにてくびをしめへく候か、女きニ御入候とも、御ふんへつ候へく候、又ゑんろこそて一かさね給、一しほゆわい入まいらせ候、以上、
 此たひのよし重つもりちかひまいらせ候、たヽいまはこうくわ井候、さりながら、いよ~~うちかわるましきよし、けん信も同意におもひまいらせ候、とかくに、よきやうにせいを御入もつともに思ひまいらせ候、めてたくかしく」
 天正二年十一月の「ひろつな御つぼね(少将どの=佐竹義重の妹で宇都宮広綱の正室)宛」の書状ですが、この内容の訳には諸説あります。まずは、私の拙い訳文を。

 かえすがえす(佐竹義重と宇都宮広綱が)敵(北条氏政)の表裏ある口先に乗ってしまい、真綿で首を締められるようになるのは間違いないことですから、女騎(女武将)になられた以上は分別をわきまえられるように。また小袖を送りましたが、お気に召しますかどうか。
 このたび佐竹義重が計算違いした(裏切った)ことで、私も後悔していることです。しかしながら考えを改めている様子なので、私もそれに同意します。とにかく、よい方向で動いていただければと思います。めでたく、かしこ。

 この時期の謙信は↓の記事でみたとおり、関東平定(治安維持)の望みを絶たれる政治情勢に陥っていました。

http://07494.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/post_17ac.html

 そこで、佐竹氏出身で宇都宮氏に嫁した「少将どの」に政治工作を託した。というのが書状の概略になります。さて、佐竹義重と宇都宮広綱が北条側に寝返った件で「彼らも後悔しているはずです」と、通説どおりに解釈した場合は「さりながら(しかしながら)」が訳せないのです。そこで「私も後悔している(落ち度であった)」という新解釈も可能なのではないでしょうか。
 じつは、本題は「女きニ御入候とも」です。これを「女騎(女武将)になられた」と訳すのか、それとも単に「女儀に=女の身であろうとも」とするのか。さらに超訳すれば「私たちのような女であっても」とするのか……。
 ここでカギになるのは、天正年間に宇都宮広綱は病床にあり、少将どのが政務を代行していたという有力な説です。つまり、謙信はもっぱら佐竹義重の政治動向を伺い、佐竹義重の妹である少将どのを通じて政治工作していたと考えられるのです。しかも、少将どのは宇都宮氏の政治態度を決める立場(通説では、のちに宇都宮の尼将軍)にあったのではないか、と。
 とりあえず、上杉謙信が自筆で残した「男体化」(女性説の傍証)と「女き」(女騎か女儀?)について、原史料からUPしてみました。みなさんの解釈は、いかがですか?

まぁ、面白かったので。という方は↓をクリック!

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2007年5月21日 (月)

新刊のお知らせ

 新刊『北越女人戦記・第一部甲冑の美少女・第三章「虎千代どの御出陣」』(でじたる書房)が出展されましたので、お知らせいたします。

http://www.digbook.jp/product_info.php/products_id/8562

 長尾景虎(上杉謙信)の初陣には諸説あり、最初の居城(郡司)が三条であったか栃尾であったかは不明とされてきました(軍記書による)。しかし、たしかな史料は『越佐史料』三巻866にある長尾晴景の書状で、栃尾城「古志郡司」が正しいようです。

 本編においても、古志長尾氏の家臣である本庄実乃を後見役に景虎(虎千代)が栃尾城に入城後、彼(本編では彼女)を若輩とあなどった越後中郡の国人領主たちが叛乱する展開になっています。

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2007年5月13日 (日)

新刊のご案内

 電子書籍「北越女人戦記・第一部第二章・越後林泉寺の女番長」がUPされましたのでお知らせします。

http://www.digbook.jp/product_info.php/products_id/8488

 上杉謙信(女性設定)の少女時代、虎姫一行が関東に諸国行脚する過程を描いた章です。この行脚の物語は、軍記書「北越軍記」「甲陽軍艦」などの伝承記述をもとにしています。

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2007年5月 2日 (水)

上杉謙信女性説

 明日から急遽の旅行(バカンスにあらず)とあいなったので、GW明けにUPする予定だった記事を急遽……。
 おそらく休暇あけ数日を待たずに、画像の『北越女人戦記別巻・上杉謙信女性説について』が電子出版サイト↓で読めるようになるはずなので、その紹介。

でじたる書房
http://www.digbook.jp/

 で、その別巻の構成(章題)は、

・八切止夫説の検証
・軍神像を創作した江戸期の軍記書
・時代が必要とした虚像の謙信をあばく
・直筆書状と願文にみる謙信の実像
・謎に包まれた戦国大名上杉謙信
・いまだに不明な謙信不妻帯の謎
・真言密教の戒律も決め手にならない
・謙信飯綱修験道信仰の真偽
・男色説も女性説も推論にすぎない
・女性説しか合理的説明はできない
・伝説の中の姫君たち
・女性恐怖症説? も成り立たない
・上杉謙信の肖像画について(画像3点の比較検証)

 執筆しながら付けた小見出しなので、何だかバランスも語呂も悪い(苦笑)。前半が八切説の検証から江戸時代に創作された軍記書の検討まで、最新の研究を援用した内容Photo_2に。八切説のエッセンスは『当代記』(江戸初期)に記載がある謙信の死因を「大虫」(婦人病)とするところなのですが、当方は一次史料に依拠して「虫気」説(上杉景勝の書状三通)を採用。文献史学の原則にしたがえば、この「虫気」説に反駁可能な研究はありえないと思う。
 以下、抜粋。

「謙信が旧暦天正六年三月九日、午の刻(昼の十二時)に春日山城の厠で倒れたという伝承(死去は四日後の三月十三日)をかんがみても、当日は新暦に換算すると北国の越後にも若葉が芽吹く四月二十五日なのですから、居室と厠の気温差などで不慮の脳卒中を生じたとは考えにくいものがあります。いっぽうで、腹痛や産気・陣痛で意識を失って昏倒する症例というのも、きわめて稀なケースと云えましょう。このように、どちらが真実の死因だったのか判別しがたいのです。
 そうであれば、予断と推論を排除して史料を素直に解釈するしかありません。
 ことさらに『当代記』の「大虫」(婦人病死因説)を検証するまでもなく、確実な原本史料とされている上杉景勝書状(前出の三通)にある「去十三日、謙信不慮之虫気不被執直遠行」(去る三月十三日、謙信が思いがけない腹痛ないしは産気・陣痛を伴う病で、持ち直すことなく遠逝しました)をそのまま採用することで、通説の脳卒中説は覆されてしかるべきと考えられます。
 生涯独身を通し、満四十八歳で逝去した謙信が妊娠(産気・陣痛)などの症例(妊娠中毒症?)で身罷ったとは考えにくいので、史料に確実な死因とされている「虫気」(腹痛を含む病の総称)を勘案するに、婦人病のほかにも消化器系の重大な疾病などが可能性として排除できないと云えましょう。ほかには暗殺説もありますが、厠で昏倒してから四日後に逝去したという伝承を揺るがせる傍証もないので、この史料的な裏付けのない俗説は排除されてしかるべきでしょう。」

 後半は謙信不妻帯の史実について、諸説を検証してみました。亡き史学界の大御所桑田忠親氏の戒律説、浄土真宗嫌悪説を批判し、俗説ながら定説のごとく触れ回られている飯綱修験道信仰説の根拠を軽ーく粉砕(失礼)。
 以下、抜粋。

「桑田氏が謙信不妻帯の理由として力説する「(戦国武将は)戦勝のためには、あらゆる手段を講じた。あらゆる手段とは、一口にいえば、戦略戦術を練ることだが、また、人知の到底およばないところは、神仏の加護に頼るほかないので、神仏を信仰し、土地や財を奉納し、戦勝を祈願したのである」という主張のとおり、じっさいに謙信は神仏に戦勝を祈願し、多数の願文を寺社に奉納しています。
 けれども、その願文の中の一通にも「邪淫戒の履行」「不妻帯の誓い」「不犯の修行」などを意味する記述はありません。願いがかなったら看経をする、壊れた寺社を再建するなどの誓いはあっても、不妻帯・不犯をもって戦勝祈願した記述は皆無なのです。したがって確実な史料の上では、神仏への戦勝祈願による不妻帯説は頷けません。これら史料の裏付けがない仮説は、論者の自由勝手な推論と見做すほかないでしょう。
 なお、桑田忠親氏は収録本(『戦国史疑』講談社文庫)の別稿(戦国史、謎の多い事件と人物)で「一度も妻をめとらず、側室もなく、したがって実子も儲けなかった。……まことに不可解な身の処し方をした……謙信は、男色家で女ぎらいであったとか、不能者であったとか、男でなく女であったとか、さまざまな異説が唱えられた。このうち、女人説は、異説中の奇説であろう。しかし、残念ながら、謙信が男であったことは、あらゆる角度から立証される」としながら、これもまことに残念ながら「あらゆる角度から」のひとつの角度からも男性説(女性説の否定)を立証されておられません。
 同書には、南条範夫氏の『三百年のベール』や隆慶一郎氏の『影武者家康』などに連なる元本の『史疑徳川家家康事蹟』(村岡素一郎氏、明治三十五年刊)に対する詳細な史料批判もあり、その表題にたがわぬ豊富な内容にもかかわらず、八切説については一顧だにしない有り様なのです。
 ところで、桑田氏が説かれる「あらゆる角度から立証される」にも、おのずと制約があ
るのは云うまでもありません。江戸中期以降に成立した軍記物語(大半がフィクション)に典拠しないかぎり、桑田氏においても「謙信が男であったこと」の論証は唯一無二、謙信が男性名だった史実をもってしか「立証される」ことはないだろうと、不遜ながら著者は思料します。
 謙信の男性名から男性であることを前提にしてしまうと、たとえば『甲陽軍鑑』の訳書(吉田豊氏、徳間書店)にみられるように、武田信玄の勝頼への遺言とされる「謙信は、たけき※武将なれば、四郎わかき者に、こめみする事有間敷候」(原文)を「謙信は男らしい武将であるから、若い四郎(勝頼=引用者注)を苦しめるような行ないはするまい」
(訳文)などという具合に、恣意的な誤訳を冒してしまうのです。
 もとより、謙信が男性名であるからこそ女性説(異説中の奇説)が唱えられるのであって、男性名をもって謙信が男性であること(通説)を所与の前提にしてしまえば、およそ議論が成立しないのは言うまでもありません。戦国時代に男性名の女性当主が存在した史実は、前述したとおり井伊直虎(井伊直盛の娘)の例に見られます。」

 ざっと全体としてみると、反論の余地がないほどガチガチの「上杉謙信女性説」に仕上がったのでないかと思う。基本コンセプトが男装説(男性名で性別を秘匿)なので推論の部分には再考・再論の余地があるものの、一次史料の研究が直筆分析(筆跡鑑定)に立ち至るまでは第一線の歴史研究者も認めざるを得ない(とりあえず無視するww)のではないだろうか。などと、勝手に満足している私(笑)。
 別巻の電子出版頒価は、四百字詰め原稿用紙換算100枚弱を500円なり。けっこう高いと思われるかもしれないけれども、それなりに膨大な史料代と労力を注ぎ込んでいます。本編の『北越女人戦記』も、一章分300円(一巻が全5章で1500円、消費税抜き)はリアル本の単価に準じた価格だと思ってください(汗)。いちおう私も、プロ作家なのでして……orz
 それでは、短期休暇(兼所用)に入りますので。連休明けに、再会っ!

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『北越女人戦記』第一部 長尾虎千代の巻 甲冑の美少女

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2007年4月30日 (月)

一年ぶりの更新っ!

Hokuetsu_onnna_jinnsenki_01  ブログを開設してから、じつに一年ぶりの更新であります(苦笑)。もともとはnifty のユーザーHPサービス(リンク先の本館サイト)が終了してココログ(このブログサービス)に一元化されるという諸事情から、緊急避難的に開設したのが立ち上げの理由でした。同時に、横山茂彦名で発表する予定作品のフォローとしてサイトが欲しかったのも開設の理由だったのです。
 そこで、今回めでたくブログの更新がなったのは、その横山茂彦名の作品を上梓したからなのである! とはいっても、発表の場はきわめてマイナーな(失礼っ)電子出版サイトでありまして……。当該作品↓は、ここ数年らい研究してきた「上杉謙信女性説」にもとづく大河小説です。

http://www.digbook.jp/product_info.php/products_id/8454

 さて、この作品なのですが。内容の出来不出来はともかくとして、八切止夫氏の論考を今日的に検証しながら上杉謙信像を描き、返す刀で江戸時代の軍記書に依拠した従来研究(および小説)に反駁したもの。最新の自治体編纂本に収録の第一次史料を読み込だ(徒)労作であります。しかしながら、なかなか出版の引き受け手がなく、日の目を見なまま推移していました。
 無名作家の二千枚超の大河小説で、しかも見通しのつかない未完成作品……。その中身はといえば、歴史小説の大家や歴史研究者が眉をひそめる「上杉謙信女性説」。そうあれば、商業出版の買い手がつかないのは言うまでもなく、あまたある文学賞に公募することもできない(規定枚数を大幅にオーバー)まま、わがPCの片隅に埋もれていたのでした。
 このまま原稿を眠らせておくのもまことに忍びがたく、発表の機会もなければ全五巻の作品を完成させるモチベーションもおとろえるばかり。時あたかもNHK大河ドラマ『風林火山』が同じ時代を描いているおり、ここは思いきって電子出版化して少数とはいえども聡明なる読者の反応を請うにしくはなし。と、思い至ったわけなのです。

 この儀、よろしくお願い申し上げます。とりあえず、一年ぶりの更新のご挨拶ばかりにて、恐惶謹言。

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