2013年4月11日 (木)

道鏡皇位神託事件の真相1

 今年は伊勢神宮の式年遷宮の年です。たしか20年前は、ある民俗史研究者の本を編集していて、その人が式年遷宮の年に本を出せるのは望外の喜び、みたいなことを書いておられた記憶があります。早いものです。

 そこで、今年は伊勢神宮にまつわる謎、正史にはけっして書かれていない部分をすこし解説しましょう。歴史サイトで連載する予定なので、リンクも貼っておきます。

●「道鏡皇位事件で、伊勢神宮はなぜ宇佐神宮に神託の栄誉を奪われたのか?」

 古代奈良王朝をゆるがした大きな事件のひとつに、私たちは弓削道鏡の皇位神託事件を知っている。道鏡を帝にという神託の正否をめぐって、禁裏のみならず日の本の国を騒がせた政争ともいえよう。

 このとき、道鏡の皇位託宣をくつがえしたのは豊前の宇佐八幡神宮であり、称徳帝の勅使として八幡神の神託を確かめた、和気清麻呂の功績が今日につたわっている。仏教が旺盛に流行っていたこの時期、神託が皇統を決めることで、神道がほんらいの役割をしめした事蹟でもある。

 
 ではなぜ、このとき皇室の祖廟である伊勢神宮は皇統にかかわる神託を依頼されることなく、九州の地方神にすぎない宇佐八幡神宮に名を成さしめたのであろうか。これは、ながらく疑問とされてきた史実である。

 
 それいらい、宇佐八幡神は石清水八幡(京都)、鶴岡八幡(鎌倉)などに勧請され、戦国時代には武士の神社として各地に建立されることになる。つまり伊勢神宮は、道鏡神託事件に何ら積極的に関わらなかったことによって、近世に至るまで八幡神の後塵を拝することになったともいえるのだ。

 
 さらに言えば、平安期には熊野詣として、熊野信仰が朝廷をふくめた貴族階級に流行するも、伊勢神宮はついに帝の参拝も得られなかった。代々の帝は禁裏から伊勢神宮に拝礼するにとどまったのである。

つづきはこちらで(無料です)。

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2012年6月 4日 (月)

神道講義4 宇佐八幡の神宮寺・弥勒寺

Dscn0771  宇佐神宮です。かつて、官幣大社(神社)のなかにお寺があった。いや、正確には国家神道になる過程で廃仏毀釈がおこなわれ、神宮寺は破壊されたのでした。

 さきに紹介した奈良の春日大社と興福寺(藤原氏の氏神と氏寺)の場合は、神域と仏教伽藍が場所的に隔てられていたのでそのまま残りましたが、宇佐神宮の場合はちがっています。Dscn0774b  

 右の写真のとおり、神社の中枢ともいえる場所に位置していたのです。当時は弥勒寺の北が表参道で、朝廷からの勅使も最初に弥勒寺を訪ねたということです。宇佐神宮は国東半島まで支配下に置いていたとされますが、その実務は弥勒寺の僧侶たちが担っていたのではないでしょうか。なぜならば、国宝に指定されている富貴寺など、国東半島は仏教文化の根づよい地域だからです。

Dscn0772  宇佐神宮は広大な神域を持っていますが、小椋山と呼ばれる本殿のある丘は、自然の地形ではなく古墳の跡とされています。卑弥呼の墓だという説もあります。ただ、こうして弥勒寺の礎石が発掘されてしまうと、古代史的な興味よりも中世、江戸時代の宇佐神宮に興味を惹かれますね。Dscn0775  

 弥勒寺の縄張り(建物跡や地形)が判明したのが10年ほど前。礎石は完全な形ではありませんが、金堂や講堂跡もわかってきています。ワタシの祖父(横山秀雄)が昭和の御造営を執り行なったとき、ここには土産物屋だとか料亭など、表参道の入り口ならではの賑わいがあったと言われています。往時を知っている人がいなくならないうちに、聞き取りをしておこうと思います。

 ではまたcat

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2012年5月19日 (土)

神道講義3 審判

 前回は「もともと自然信仰として日本で育った神道が、外来宗教である仏教文化を受容した秘密」を設問としました。

 歴史的には敏達帝・用明帝の時代に、神道を奉じる物部氏と仏教を受容した蘇我氏が争い、丁未(ちょうび)の乱で物部守屋が滅ぼされます。これを機に、仏教が朝廷に公認されたわけです。一説には仏教がもの凄いいきおいで神道を駆逐したと言われていますが、むしろ融合していったと言うべきでしょう。たとえば、八幡神が八幡大菩薩(仏の形)になるように、信仰が形をかえて継続されたわけです。

 ではなぜ、仏教は歓迎されたのか。その答えは神道の宗教としての特徴にあります。前回書いたとおり、神道においては誰もが神の分身であり、清めることによって神性をよみがえらせるので、そこには「地獄annoy」という概念がないのです。

 誰でも神になり、自然にもどるという感じでしょうか。これはこれでラクなのですが、あまりにもつらい現世から考えると、もうすこし救いがあってもいいのではないか。現世が生き地獄なら、身まかったのちは極楽に往ってみたいものだ、と考えるのではないでしょうか。ご存じのとおり、仏教には地獄annoyと極楽shineがあります。

 同じく、キリスト教にも地獄と天国がありますよね。これを「審判」ともうします。室町時代にキリスト教がもの凄いいきおいで浸透していったのも、飛鳥時代の仏教の浸透に似ています。つまり、仏教(およびキリスト教)には神道にない救いの思想、つらい現世を修業と置き換える教理があるのです。以上、仏教浸透の謎でした。

 先日、宇佐神宮の神宮寺である弥勒寺跡を訪ねましたので、次回はそのレポート。ではまたcat

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2012年5月10日 (木)

神道講義2 神道と仏教

 神道講義の2回目です。神道という宗教の特徴は、ハレの行事(お祭り)ばかりで「清める」「お祓いをする」のが基本です。これは「分御霊(わけつみたま)」といって、誰でも神様の分身なのだから、お祓いをして清めれば元の清浄な姿になる。穢れを取り除くことができるという考え方なんです。何かを念じたりするのではなく、ひたすら清浄になることで利益が得られると。その意味では、お葬式(神道葬祭)もお祭りなのです。↓こんな感じでお祓いをします。

 神道の最もベーシックな祝詞(祭詞)である「祓詞(はらいことば)」

掛介麻久母畏伎 伊邪那岐大神 筑紫乃日向乃 橘小戸乃阿波岐原爾 御禊祓閉給比志時爾 生里坐世留祓戸乃大神等 諸乃禍事罪穢 有良牟乎婆 祓閉給比清米給閉登 白須事乎聞食世登 恐美恐美母白須

 仮名混じり文だとこうなります。

掛けまくも畏き 伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に 禊ぎ祓へ給ひし時に 生り坐せる祓戸の大神等 諸々の禍事・罪・穢 有らむをば 祓へ給ひ清め給へと 白すことを聞こし召せと 恐み恐みも白す

 仏教の「般若心経」(約260文字)と同じく、機会あるごとにこれを唱えます。もう少し長いのだと「大祓詞」が延喜式に記録のある日本最古の祝詞ですが、600文字ほどあって神職さんでも飛ばし読みします。

 さて、本論をつづけます。
 たとえば、七五三でお寺や教会に行く人はいませんよね。結婚式も最近は信者でもないのにキリスト教(教会)式が流行ってますが、仏式というのは、よほど熱心な仏教徒でなければ行なわないですよね。ところが、日本人の葬式の大半は仏式です。じつはこれ、日本人の宗教生活が神道と仏教を併せて成立していた名残りなんです。
 たとえば奈良の春日大社と興福寺は藤原氏の氏神・氏寺ですから、神職と僧侶が相互に祝詞を奉じたり念仏を唱えたりします。なんとなく不思議な光景ですが、これが明治維新前の日本ではふつうだったのです。神社の中にあるお寺を「神宮寺」といって、実際の神社の仕事は僧侶がになっていたと言われます。
 というのも、平安時代に公地公民制が崩壊し、寺社はさかんに荘園(私有地)を増やしました。荘園といえば貴族のものだと思いがちですが、藤原氏の例でもわかるとおり貴族は氏神・氏寺である寺社をつうじて領地や領民を支配していました。この荘園をまもる荘官に任命されたのが、初期の武士(農兵)ですね。

 ではなぜ、結婚式が神道で葬式が仏教となったのでしょうか? 上述した内容からハレとケの違いだと思いがちですが、それだけではありません。
 それはね、江戸時代にお寺で人別帳がつくられたからだ、寺請制度で税を取ったからだ、と答えた人は歴史をよく勉強している方です。キリスト教を禁止する宗門改めのために作られたのが人別帳ですが、じっさいには戸籍帳と同じ役割を果たし、納税台帳といってもさしつかえないでしょう。ちなみに、過去帳は死亡記録。
 それでも、なぜ神社で人別帳がつくられなかったのか、という疑問が残りますよね。ほとんどの町民・村民が寺の檀家であると同時に、神社の氏子だったのですから。さて、この疑問は九州から戻ってブログに書きますが、もともと自然信仰として日本で育った神道が、外来宗教である仏教文化を受容した秘密が、そこには隠されているのです。

 ではまたcat。 

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2012年5月 9日 (水)

神道講義1

 去年の秋、母が亡くなりました。健康に気をつけていた彼女には思いがけない病で不本意なことだったでしょうけど、齢80ならば相応の寿命と思えます。初めて経験する喪主、けっこう大変でした。

 まだ納骨をすませていないので、今週また九州に帰ります。この歳で「帰る」というのかな? で、祭詞「maisousainorito.docx」をダウンロード  をつくってみました。古語まじりの言葉の意味、わかりますかね? そう、ウチは神道なのです。そのいわれは曾祖父(実家では三男坊だったらしい)が横山という家に養子に入ったからなのか、祖父が内務官僚として神官になったからなのかは、よくわかりません。

 この祖父というが偉い人だったらしく(あくまでも当時の社会的評価ですが)、鶴岡八幡宮を皮切りに熊野神社、宮崎神社の神官を歴任し、最後は宇佐八幡宮の宮司と、ワタシの父の兄弟姉妹は長らく誇りにしていたものです。あなたたちが偉いわけじゃないだろと若い頃は思っていましたが……。高木彬光さんの小説『邪馬台国の秘密』に横山宮司と紹介されているのが祖父です。早世したのでワタシは知りませんが、晩年は戦争協力者として公職(宮司職)追放になったということです。内務官僚が神官になった理由は、ご存知のとおり戦前が国家神道だったからで、もとからの社家というわけではないんですね。したがって、国学院大学の神道学科を出た伯父は宮司にならず、当時は儲かる商売だった電気屋さんになりましたとさ。

 秋の一年祭までは祭主を務めるので、しばらくこのブログで神道講義をしますね。まずは、ここで神官という言葉が出てきましたが、いまの日本に神官は存在しません。「官」は官僚の意味であって、官幣社(国家が運営する神社)に固有のものだったからです。これは国立大学の専任講師以上を教官と呼び、私立大学は教員となるのと同じ。正しくは神職さん・神主さんなんですけど、何となく神官さんと言ってしまうんですね。葬儀会社の若い女性社員(司会とかやる人)もそうでした。

 上の祭詞(お祝い事なら祝詞、結婚式は祝言となります)の意味、わかりましたか? おい、おっかさん。ちゃんと規範にのとって葬儀をして、みんなで酒や御馳走を飾ってお祈りしたんだから、心穏やかに眠りなさいね。けっして化けて出たりするんじゃありませんよ。というほどの意味です。

神楽鈴です(国学院大学の箱根駅伝応援グッズ)。Dscn0752  

ではまたcat

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