2016年4月 7日 (木)

本日発売!

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 新刊です。山口組分裂抗争のあおりで、表紙が凄いことに。ちゃんとした歴史本のつもりですが、暴力団コーナーにしか置かれないでしょうねcat
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 内容は、日本史は土地争いの歴史であった。しかし租税がある以上は公地であって、歴史上で土地を私有(不輸不入=徴税に応じないし、徴税官を入れない)した勢力は、戦国大名(と徳川将軍家)しかありません。というもの。
 もうひとつ、ヤクザ(暴力団)が任意団体なので、収入に対する所得税が発生しないの、知ってますか? 壊滅作戦とかしないで、法人化して税金を取ればいいではないか。という主張です。
Dscn3244   もひとつ言えば、警察はぜったいに暴力団を壊滅できない。なぜならば、それが警察組織の縮小につながるからです。ということを、暴力団追放運動の利権構造から明らかにし、政治家とヤクザ(集票組織)の癒着を断ち、暴力団の利権を奪う、警察官僚たちの狙いを、体験的に立証する。そんなところです。
 歴史の本なのか「社会・事件」の本なのか、書店員を悩ますことになると思います(分類コードは歴史ですが)。それが版元の狙いでもあるわけで、このタイトルを成り立たせようとした著者(ワタシ)の苦労もお察しください。
 歴史好きには、こんなところが興味を惹くかも。
 ・道鏡神託事件は、藤原一門(貴族)の土地私有(荘園確保)のための謀略だった。
 ・和気清麿は道鏡の配下の者だった。・孝謙(称徳)女帝は密殺された?
 ・卑弥呼(ヒミコ)は日皇女か日巫女だった?
 ・桶狭間の合戦は、織田勢800対今川勢300の戦いだった!
 ・明智光秀は一向宗(浄土真宗)を味方にすれば、秀吉に勝てていた?
 
 お求めは、アマゾンでどうぞ。 

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2016年1月10日 (日)

謹賀新年@新刊のお知らせ

 おそくなりましたが、新年おめでとうございます。今年もどうかよろしく。Dscn3045
 今年は京都風のお雑煮をつくってみました。西京味噌に里芋、鶏肉、甘さこってりの出来ばえ。九州のお雑煮はおおむね、ブリをつかった澄まし醤油風味で、薄口醤油をつかうのが味のひみつ。東京ではあまり売ってませんけどね。
 新刊です。
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 例によって、大河ドラマ本は真田丸。今年のドラマの歴史考証は「真田幸村」が「信繁」だったこと。そして、その信繁がじつに気遣いの人で、お酒(焼酎)が好きだったことなど。当時、焼酎は手のかかるお酒で、高級酒でした、とか。Dscn3051

 ワタシの本の売りは、豊臣秀頼の父親問題。秀吉ではないのは言うまでもありませんが、石田三成でもありません。淀殿と三成は、家系が仇敵のうえに、史料上は接点がありません。
 そこで、本命は誰かというと、じつに原史料がありました。ある武将の国元への手紙と奈良・興福寺の日記に、おひろい様(秀頼)のおふくろ様(淀殿)の愛人は、誰それと。しかも、秀吉の遺言で家康と再婚させられそうになった淀殿は、その愛人と心中未遂……。
 むかしの昼メロとかじゃありませんよ。ちゃんとした一次史料にある史実です。「真田丸」のほうは緊迫感のないスタートでしたが、脇役の役者がいいので観ます。また何か、ここにアップします。cat
 

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2013年10月11日 (金)

月刊文藝春秋@歴史特集

 まだ暑い日がつづきますね。これでいきなり冬snowとかになられたら、秋の立場がありまっせん。最近、姪っこにブログを探知されて、あまりふざけたことが書けなくなった横山です。

 

 というわけで、テレビ出演のときは恥ずかしいばっかりだったので、録画もしていませんが、今回はちょっと報告しておこうと思います。天下の月刊文藝春秋の特集に、小文を書かせていただきました。

 活字離れとともに、大手各社の総合月刊誌が部数減、撤退を余儀なくされるなかで、市場分割戦に勝ち残ったのが左派系の『世界』と右派系とされる『文藝春秋』というわけで、これに載るのは、いわゆる「文化人」ということになります。ただし、前後が京大名誉教授とか東大教授なので、ワタシのスペースはわずか1ページ半という少なさ。ま、身の丈ですね。Dscn1854

 特集のタイトルは「歴史の常識を疑え」で、ワタシの論考は「倒幕の雄藩がなぜ『松平姓』なのか?」。この手の特集は新史料発見とか、いままであまり気にしていなかった史実とか、最近の流れですね。歴史好きには、ことさら新しい内容じゃありませんけど。
 

 短い文章なので、どうぞ立ち読みしてくださいcat

 

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2013年8月 1日 (木)

新刊、『最強剣豪大全』発売中

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新刊(共著)の宣伝。 『最強剣豪大全』、ダイアプレスから発売です。

 ワタシの論考は「剣術裏面史」。佐々木小次郎はいなかった、ではなく名前が絶対に違う(歌舞伎の役名だったから)。剣術は弱者の兵法だった(腕力の劣る人でも、術を覚えれば猛者に勝てるから)。合戦場ではぜんぜん役に立たなかった(弓と鉄砲による死傷者が大半で、攻撃的な槍にも勝てないから)。

 そんなような話をはじめ、他の筆者たちも剣豪伝説の危うさと真実をあますところなく暴露しております。ご購読のほど、よろしくお願いいたします。m(_ _)m

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2013年6月27日 (木)

宝島ムック

61fmxrbghl__sl500_aa300_ ちょっとですが、記事を書きました。宝島社の「忍者の正体

けっこうタブーに挑戦した中身になっています。

お買い上げは、こちら。宣伝でしたッ。

ではまたcat

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2010年3月 3日 (水)

研究テーマ@タイトルズ(笑)

 歴史研究のサーチエンジンに登録したり、戦国史研究というカテゴリーを作ったいじょう、少しはまともな論考で体裁を取り繕うような必要も出てきました。

 そこで、タイトルだけでも。

女足軽の遺骨 ――― 合戦場には数千人の女兵士たちがいた
女性の大名はいたか? ――― 戦国時代はもとより、江戸時代にも女性大名がいた
秀吉の墨俣一夜城はなかった ――― 江戸時代に創作された武勇伝
桶狭間合戦 ――― 迂回奇襲説は嘘だった
信長軍団の強さの秘密 ――― わずか800人の強者集団が天下をもたらした
長篠合戦 ――― 三千挺の鉄砲vs騎馬軍団はなかった
川中島合戦の原因は? ――― 信玄を驚愕させた武田氏の内紛
キツツキ戦法はなかった ――― 妻女山に布陣したのは上杉景勝だった
上杉謙信は女だった
本能寺の黒幕は誰だ?   
天下取り競争はなかった

 で、そのネタ元はといえば、

黒田基樹(駿河台大学准教授)
「戦国大名の危機管理」(吉川弘文館、歴史文化ライブラリー)
「百姓から見た戦国大名」(ちくま新書)

平山優(山梨大学講師、山梨県教育委員会県史編さん室主査)
「山本勘助」(講談社、現代新書)
「川中島合戦」(学研M文庫)

鈴木眞哉
「鉄砲隊と騎馬軍団―真説・長篠合戦」(洋泉社新書y)
「刀と首取り―戦国合戦異説」(平凡社新書)

桐野作人
「真説 本能寺」(学研M文庫)
「だれが信長を殺したのか」(PHP研究所)

白川亨
「石田三成とその子孫」(新人物往来社)

藤木久志
「飢餓と戦争の戦国を行く」(朝日選書)
「城と隠物の戦国誌」(朝日選書)

小和田哲男
「桶狭間の戦い」(学研M文庫)

工藤 健策
「信長は本当に天才だったのか」(河出文庫)  

 ざっとこんな感じになります。さて、軽いノリで解説してゆきますんで、ご期待ください。そのうちUPしますcat

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2010年2月 7日 (日)

『合戦場の女たち』イントロ。

 すっかり自転車ブログになっちまったここですが、もとはといえば電子書籍の宣伝用のサイトでした。新刊が出て、いろいろと歴史系検索サイトに登録する関係上、ほんらいの役割にもどしつつ、自転車の情報もつづけていこうと思っています。Dscn5410_258

 そこでまずは、ここに来られた方が「なんだこれ、自転車乗りのブログじゃねgawk」と混乱しないように、コンテンツを増やしていこうと思います。いろいろ解説するのも面倒なので、新刊のイントロ部分をUPしときます。つぎ、小説も歴史モノにしやしょう。来週、出版社の担当者に会いますthink

 では、引用。

第一章 発掘された女性兵士たち

1 戦死者のうち、三人に一人は女性だった

 ここ十数年の文献史学の成果により、戦国時代の様相は大きく変わってきた。

 その様相の変化とは、各自治体史(県史・市町村史)の編纂によって、全国に散在していた一次史料の活字化が進み、史料研究が飛躍的に進捗したことである。活字化が進むことで、私たち一般の歴史愛好家にも一次史料が読まれるようになり、これまでの通説についての疑問も受け入れやすくなったといえるだろう。

 かつて、江戸時代に編纂された軍記書をもとに戦国時代を描いた「歴史ドラマ」や「歴史小説」なども、戦国時代の第一級の証言者である「書状」や「発給文書」の発見によって、その信憑性が葬り去られようとしている。さらには人類学や考古学史料の発掘によって、文献に記録されなかった史実まで明らかになりつつあるのだ。

 たとえば、戦国時代末期の天正八年に武田氏と北条氏とのあいだで戦われた沼津の千本松原の合戦場跡には、ほぼ当時のままの首塚が残されていた。この首塚に残された一〇五体ある戦死者の遺骨のうち、じつに三五体(三三・四パーセント)が女性のものだったと分析されているのだ(『骨が語る日本史』鈴木尚)。この女性たちは何者だったのだろうか。

 このときの合戦は『北条五代記』に、

「天正八年の春、(武田)勝頼駿河に出陣す。(北条)氏直も伊豆の国へ出馬し、三嶋にはたを立たゝかひ有。重須の兵船駿河海へ働をなすべきよし、氏直下知に付て、毎日駿河海へ乗出す。勝頼旗本は浮嶋が原、諸勢は沼津千本の松原より……」

 とあり、武田氏側にも勝頼発給の感状が認められるので、まちがいなく史実である。

 そのほかの中世の合戦場(鎌倉村木座・江戸崎など三カ所)に残された戦死者の分析でも、鈴木尚氏によるとおおむね三○パーセントが女性の遺骸だとされる。この事実をそのまま受け入れるならば、戦場で死んだ兵士のうち三人に一人は女性兵士だったということになる。鈴木氏の分析を少し引用してみよう。

「(貫通銃創が疑われる頭蓋の穿孔と)同じ小銃弾と思われる小孔は第三〇号頭骨(熟年の女性)の後頭部にもみられた。この女性は逃げるときに後から射たれたものであろうか」「(鋸で切断された四個の骨片のうち)骨片一は甚だ薄い骨であることから、成年の女性と推定される」「発見された遺骨の三分の二は男性、三分の一は女性と判断された。彼らは成年が主体で、熟年は僅であったが、老年と幼少年は全く認められなかった」(第7章、沼津千本松原の首塚)。

 千本松原の合戦は武田氏と北条氏の両軍の当主が出陣しているので、双方ともに数千~万単位の人員を率いての戦いだったと考えられる。かりに一万の軍勢だったとして、そのうち三千人が女性だったことになるのだ。

 さらには銃痕のある遺骨もみられるのだから、その女性たちは戦闘に参加していた可能性が高い。あるいは直接的な戦闘行為に参加しないまでも、戦場で夫や息子のために食事をつくり武具や具足のほころびを修理していただけでも、敵の矢玉の犠牲になることがあっただろう。それもまた前線の兵士としての役割というべきである。

 NHK大河ドラマの歴史考証などで有名な小和田哲男氏(静岡大学教授)は、最近の著書『戦国の合戦』『戦国の群像』の中でこの発掘例にふれ、

「ふだん私どもが目にする合戦図屏風などでは、戦場で戦っているのは男性ばかりが描かれているので、女性はほとんど戦場にいなかったのではないかと考えていたが、実際の場面では、男女の別はあまり意味をもたかなったのかもしれない」としている。

 あまたの先達が説いた歴史観によれば、戦国時代は女性にとって悲劇の時代だったのではなかったか? そう、小和田氏が「女性であるが故の性的被害もあった」と指摘するとおり、女性が乱取りに遭うシーンは大坂夏の陣図屏風に描かれている。

 戦国女性にとっての悲劇とは合戦だけでなく、物々交換にでもされるがごとき人質という運命に象徴されてきた。史実の戦国大名の娘たちはほぼ例外なく、家臣団との紐帯を強めるか隣国の大名との同盟関係のために政略結婚を強いられた。あるいは和議のための人質として他国に送られたのである。

 しかしながら、松永久秀が信長に叛旗をひるがえしたときにその息子たちが処刑されたように、戦国大名の息子たちも人質として悲惨な末期をたどった者は少なくない。彼らも娘たちと同様に一族の手駒として、人質であるか他家乗っ取りのためであるかはともかくとして、自分の意志とは無関係に養子に出されたのだった。

 女性が一方的な犠牲になり、武士という名の野蛮な男たちだけが好き勝手に荒し回った時代だったとは、単純には言いきれないのである。この荒々しい時代、女たちも戦場を駆ける荒ぶる兵士だったのではないだろうか。

 ではまた♪

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2007年5月29日 (火)

上杉謙信女性説 補論

『北越女人戦記別巻 上杉謙信女性説について』(下記URL)では、死因と不妻帯の合理的説明という観点から論点を構成しましたが、じつは本文に収録しなかった史料もあります。今回はそれらを少々、紹介したいと思う。

別巻の本体(でじたる書房)
http://www.digbook.jp/product_info.php/products_id/8523
別巻の紹介記事(本サイト)
http://07494.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/post_0370.html

 状況証拠の積み重ねが結論を左右する。これは裁判のみならず、文献史学においても援用される方法です。解釈の分かれる史料を状況証拠に「……だが不明」とするのか「……と推論できる」とするのかは、歴史家の研究態度や立場(研究環境)にもよりますが、私の場合は作家なので制約なく当該史料を提供することにしましょう。
 そのひとつは、長尾景虎(上杉謙信)の願文です。

「……人王継代之初神武天皇以来十四代仲哀天皇、后神功皇后、摂政即位元年辛巳治六十九年、春秋百廿載、女帝始祖、当後漢建安六年庚辰年十月辛丑日、皇后召具住吉・諏訪二神而、忽化男形、責三韓・新羅・百済畢、御帰来筑紫、王子御誕生、応神天皇・豊前国馬城郡宇佐八幡大菩薩是也、元慶七年癸卯被移雍州男山石清水、遙至于東海相州鎌倉、勧請其流、号鶴岡若宮八幡宮畢、先代九世之初、征夷大将軍源頼朝公崇之而、奇妙神助有之云々……」
 抜粋した願文は、千葉県妙本寺に伝わる永禄四年二月二十七日付(「上越市史」中世編258 )で、長尾景虎が小田原攻めに先立って鶴岡八幡宮(鎌倉)に奉納したものとみて間違いないでしょう。
 簡単に訳せば、

 神武天皇から十四代目の仲哀天皇の后である神功皇后は、辛巳六十九年に摂政に即位し、百二歳まで生きた初代女帝である。後漢建安六年の庚辰年十月辛丑の日に住吉大社と諏訪大社に詣でましたところ彼女はたちまち男性化し、三韓を征伐して帰朝しました。このときに皇太子が誕生し、大分の宇佐八幡宮に祀られる応神天皇となったのです。元慶七年の癸卯(平安時代前期)に山城国の石清水神社に移され、その後はるか東海の鎌倉に移されました。源頼朝公が鶴岡八幡宮と号して奉ったところ、奇妙にも神の加護があったということです。←こーんな感じ?

 さて、ここで問題なのは「忽化男形」(たちまち男性化した)というくだりです。
 住吉と諏訪の神に祈願したところ、神功皇后がたちまち男性化し、三韓征伐に成功したというのです。これを女である長尾景虎が「たちまち男性化」することを祈願した。と、解釈することも、あながち的外れではないのではないか?
 ただし、この願文は鎌倉(鶴岡)八幡宮の由来を建国神話から述べたて、引用しなかった後段は長尾氏の関東への縁、ならびに自分(景虎)の祖霊を敬う信条を述べていることから、かなり形式的な内容とも解釈できる。いずれにせよ、景虎が「男性化」と記していることは事実なのです。
 つぎに、別巻のなかでも指摘した盟約する関東諸公の夫人に宛てた書状から。
「返々、そのくちてきのひうりにのられ候ヽ、たしかわたにてくびをしめへく候か、女きニ御入候とも、御ふんへつ候へく候、又ゑんろこそて一かさね給、一しほゆわい入まいらせ候、以上、
 此たひのよし重つもりちかひまいらせ候、たヽいまはこうくわ井候、さりながら、いよ~~うちかわるましきよし、けん信も同意におもひまいらせ候、とかくに、よきやうにせいを御入もつともに思ひまいらせ候、めてたくかしく」
 天正二年十一月の「ひろつな御つぼね(少将どの=佐竹義重の妹で宇都宮広綱の正室)宛」の書状ですが、この内容の訳には諸説あります。まずは、私の拙い訳文を。

 かえすがえす(佐竹義重と宇都宮広綱が)敵(北条氏政)の表裏ある口先に乗ってしまい、真綿で首を締められるようになるのは間違いないことですから、女騎(女武将)になられた以上は分別をわきまえられるように。また小袖を送りましたが、お気に召しますかどうか。
 このたび佐竹義重が計算違いした(裏切った)ことで、私も後悔していることです。しかしながら考えを改めている様子なので、私もそれに同意します。とにかく、よい方向で動いていただければと思います。めでたく、かしこ。

 この時期の謙信は↓の記事でみたとおり、関東平定(治安維持)の望みを絶たれる政治情勢に陥っていました。

http://07494.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/post_17ac.html

 そこで、佐竹氏出身で宇都宮氏に嫁した「少将どの」に政治工作を託した。というのが書状の概略になります。さて、佐竹義重と宇都宮広綱が北条側に寝返った件で「彼らも後悔しているはずです」と、通説どおりに解釈した場合は「さりながら(しかしながら)」が訳せないのです。そこで「私も後悔している(落ち度であった)」という新解釈も可能なのではないでしょうか。
 じつは、本題は「女きニ御入候とも」です。これを「女騎(女武将)になられた」と訳すのか、それとも単に「女儀に=女の身であろうとも」とするのか。さらに超訳すれば「私たちのような女であっても」とするのか……。
 ここでカギになるのは、天正年間に宇都宮広綱は病床にあり、少将どのが政務を代行していたという有力な説です。つまり、謙信はもっぱら佐竹義重の政治動向を伺い、佐竹義重の妹である少将どのを通じて政治工作していたと考えられるのです。しかも、少将どのは宇都宮氏の政治態度を決める立場(通説では、のちに宇都宮の尼将軍)にあったのではないか、と。
 とりあえず、上杉謙信が自筆で残した「男体化」(女性説の傍証)と「女き」(女騎か女儀?)について、原史料からUPしてみました。みなさんの解釈は、いかがですか?

まぁ、面白かったので。という方は↓をクリック!

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2007年5月 2日 (水)

上杉謙信女性説

 明日から急遽の旅行(バカンスにあらず)とあいなったので、GW明けにUPする予定だった記事を急遽……。
 おそらく休暇あけ数日を待たずに、画像の『北越女人戦記別巻・上杉謙信女性説について』が電子出版サイト↓で読めるようになるはずなので、その紹介。

でじたる書房
http://www.digbook.jp/

 で、その別巻の構成(章題)は、

・八切止夫説の検証
・軍神像を創作した江戸期の軍記書
・時代が必要とした虚像の謙信をあばく
・直筆書状と願文にみる謙信の実像
・謎に包まれた戦国大名上杉謙信
・いまだに不明な謙信不妻帯の謎
・真言密教の戒律も決め手にならない
・謙信飯綱修験道信仰の真偽
・男色説も女性説も推論にすぎない
・女性説しか合理的説明はできない
・伝説の中の姫君たち
・女性恐怖症説? も成り立たない
・上杉謙信の肖像画について(画像3点の比較検証)

 執筆しながら付けた小見出しなので、何だかバランスも語呂も悪い(苦笑)。前半が八切説の検証から江戸時代に創作された軍記書の検討まで、最新の研究を援用した内容Photo_2に。八切説のエッセンスは『当代記』(江戸初期)に記載がある謙信の死因を「大虫」(婦人病)とするところなのですが、当方は一次史料に依拠して「虫気」説(上杉景勝の書状三通)を採用。文献史学の原則にしたがえば、この「虫気」説に反駁可能な研究はありえないと思う。
 以下、抜粋。

「謙信が旧暦天正六年三月九日、午の刻(昼の十二時)に春日山城の厠で倒れたという伝承(死去は四日後の三月十三日)をかんがみても、当日は新暦に換算すると北国の越後にも若葉が芽吹く四月二十五日なのですから、居室と厠の気温差などで不慮の脳卒中を生じたとは考えにくいものがあります。いっぽうで、腹痛や産気・陣痛で意識を失って昏倒する症例というのも、きわめて稀なケースと云えましょう。このように、どちらが真実の死因だったのか判別しがたいのです。
 そうであれば、予断と推論を排除して史料を素直に解釈するしかありません。
 ことさらに『当代記』の「大虫」(婦人病死因説)を検証するまでもなく、確実な原本史料とされている上杉景勝書状(前出の三通)にある「去十三日、謙信不慮之虫気不被執直遠行」(去る三月十三日、謙信が思いがけない腹痛ないしは産気・陣痛を伴う病で、持ち直すことなく遠逝しました)をそのまま採用することで、通説の脳卒中説は覆されてしかるべきと考えられます。
 生涯独身を通し、満四十八歳で逝去した謙信が妊娠(産気・陣痛)などの症例(妊娠中毒症?)で身罷ったとは考えにくいので、史料に確実な死因とされている「虫気」(腹痛を含む病の総称)を勘案するに、婦人病のほかにも消化器系の重大な疾病などが可能性として排除できないと云えましょう。ほかには暗殺説もありますが、厠で昏倒してから四日後に逝去したという伝承を揺るがせる傍証もないので、この史料的な裏付けのない俗説は排除されてしかるべきでしょう。」

 後半は謙信不妻帯の史実について、諸説を検証してみました。亡き史学界の大御所桑田忠親氏の戒律説、浄土真宗嫌悪説を批判し、俗説ながら定説のごとく触れ回られている飯綱修験道信仰説の根拠を軽ーく粉砕(失礼)。
 以下、抜粋。

「桑田氏が謙信不妻帯の理由として力説する「(戦国武将は)戦勝のためには、あらゆる手段を講じた。あらゆる手段とは、一口にいえば、戦略戦術を練ることだが、また、人知の到底およばないところは、神仏の加護に頼るほかないので、神仏を信仰し、土地や財を奉納し、戦勝を祈願したのである」という主張のとおり、じっさいに謙信は神仏に戦勝を祈願し、多数の願文を寺社に奉納しています。
 けれども、その願文の中の一通にも「邪淫戒の履行」「不妻帯の誓い」「不犯の修行」などを意味する記述はありません。願いがかなったら看経をする、壊れた寺社を再建するなどの誓いはあっても、不妻帯・不犯をもって戦勝祈願した記述は皆無なのです。したがって確実な史料の上では、神仏への戦勝祈願による不妻帯説は頷けません。これら史料の裏付けがない仮説は、論者の自由勝手な推論と見做すほかないでしょう。
 なお、桑田忠親氏は収録本(『戦国史疑』講談社文庫)の別稿(戦国史、謎の多い事件と人物)で「一度も妻をめとらず、側室もなく、したがって実子も儲けなかった。……まことに不可解な身の処し方をした……謙信は、男色家で女ぎらいであったとか、不能者であったとか、男でなく女であったとか、さまざまな異説が唱えられた。このうち、女人説は、異説中の奇説であろう。しかし、残念ながら、謙信が男であったことは、あらゆる角度から立証される」としながら、これもまことに残念ながら「あらゆる角度から」のひとつの角度からも男性説(女性説の否定)を立証されておられません。
 同書には、南条範夫氏の『三百年のベール』や隆慶一郎氏の『影武者家康』などに連なる元本の『史疑徳川家家康事蹟』(村岡素一郎氏、明治三十五年刊)に対する詳細な史料批判もあり、その表題にたがわぬ豊富な内容にもかかわらず、八切説については一顧だにしない有り様なのです。
 ところで、桑田氏が説かれる「あらゆる角度から立証される」にも、おのずと制約があ
るのは云うまでもありません。江戸中期以降に成立した軍記物語(大半がフィクション)に典拠しないかぎり、桑田氏においても「謙信が男であったこと」の論証は唯一無二、謙信が男性名だった史実をもってしか「立証される」ことはないだろうと、不遜ながら著者は思料します。
 謙信の男性名から男性であることを前提にしてしまうと、たとえば『甲陽軍鑑』の訳書(吉田豊氏、徳間書店)にみられるように、武田信玄の勝頼への遺言とされる「謙信は、たけき※武将なれば、四郎わかき者に、こめみする事有間敷候」(原文)を「謙信は男らしい武将であるから、若い四郎(勝頼=引用者注)を苦しめるような行ないはするまい」
(訳文)などという具合に、恣意的な誤訳を冒してしまうのです。
 もとより、謙信が男性名であるからこそ女性説(異説中の奇説)が唱えられるのであって、男性名をもって謙信が男性であること(通説)を所与の前提にしてしまえば、およそ議論が成立しないのは言うまでもありません。戦国時代に男性名の女性当主が存在した史実は、前述したとおり井伊直虎(井伊直盛の娘)の例に見られます。」

 ざっと全体としてみると、反論の余地がないほどガチガチの「上杉謙信女性説」に仕上がったのでないかと思う。基本コンセプトが男装説(男性名で性別を秘匿)なので推論の部分には再考・再論の余地があるものの、一次史料の研究が直筆分析(筆跡鑑定)に立ち至るまでは第一線の歴史研究者も認めざるを得ない(とりあえず無視するww)のではないだろうか。などと、勝手に満足している私(笑)。
 別巻の電子出版頒価は、四百字詰め原稿用紙換算100枚弱を500円なり。けっこう高いと思われるかもしれないけれども、それなりに膨大な史料代と労力を注ぎ込んでいます。本編の『北越女人戦記』も、一章分300円(一巻が全5章で1500円、消費税抜き)はリアル本の単価に準じた価格だと思ってください(汗)。いちおう私も、プロ作家なのでして……orz
 それでは、短期休暇(兼所用)に入りますので。連休明けに、再会っ!

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『北越女人戦記』第一部 長尾虎千代の巻 甲冑の美少女

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