本佐倉城址@歴博
本佐倉城址のガイドツアーに行って来ました。右下の写真、城址の東山馬場です。右から二人目が案内人のSさん。うしろの置き盾に千葉氏の家紋である月と星、なかなかいい感じ。
それはともかく、着くまでが大変っした……。距離を適当に考えていたのか、待ち合わせの時間に間に合わないというチョンボ。誰なんだい、間に合わないようなタイムスケジュール作ったの? →ワタシでした。しかも前半のんびり走ったもんで、後半の20kmはアベレージ30km/h 愚兵衛さん、お待たせしてすんませんでしたっ
。
朝が早かった(ワタシ比)んで、もう寝不足というか夕べのアルコールがじゅうぶんに肝臓処理されていないというか、着いてからも辛かったです。ハンガーノック気味のうえに、水分欠乏状態。もう立っていられん状態におちいり、座って説明を聴きました。ナメてたんですね、歴博のある城址公園ほどではなくても、自販機とかあるんじゃなかろか、とね。
では、ちょいとばかり城址の解説を。
右の写真の向こうが印旛沼なんですが、当時(1500年代後半)はすぐ下の田んぼあたりまで水が来ていたそうです。なるほど、沼を天然の水堀にしていたわけですね。
大堀切です。左右に郭(くるわ)があって、この堀切の上に橋が架かっていたのではないかと推論されてます。郭の土塁は今もかなり高い感じ。中世の城で、ここまで遺構が残ってるのは珍しいでしょう。
酒々井町の管理予算があまり潤沢ではないのか、草が多くて発掘当時の遺構を見ることはできません。中世の息吹を感じさせる城址、この先どう見せていくのか、先立つものがムニャムニャなんでしょうね。
ガイドさんの解説もわかりやすかったですが、小田原(天正18年)に佐倉から3000騎(徒歩兵を入れると1万?)が赴いたという説は、どうも一次史料によるものではないのでは? と(論拠は千葉市史の記述らしい)。
というのも、合戦の動員兵力というのは中世史研究でいちばん厄介なハードルなんです。だいたい当時の文書(書状)では味方の大勢に、敵を過少に書き勝ちで、確かな証拠になるはずの軍役帳は、ほとんど残ってないんですね。
ちなみに、かなり正確とされている上杉家軍役帳では、徒歩の兵もふくめて4000弱なんです。この程度が一国の御屋形が軍役衆として動員できた数。やはり上杉文書の関東注文幕で、関東250将(その軍勢は11万5000人)というのがありますが、これもやや過大な数字。ただ、あんまり「論拠の原史料は何じゃー?」とか問い詰めるのも大人げないし、こっちで調べてみます。でもまぁ、満足でした(眠かったけど)。
本日の大きな成果は、国立歴史民俗博物館の新展示室。「現代」です。ただ、戦争展示が多くて、生なましー
。疲労ピークだったんで、じっくりとは観れませんでした
。やっぱ早く寝ないとダメですね。
ではまた。
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