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2007年7月26日 (木)

秩父長瀞ツーリング その2

 前日は深夜までの深酒にも、わが鍛えられた肝機能は無敵でありました(笑い)。
 というわけで、颯爽と早起きして朝食用の卵を買いに。それにしても、クルマのいない道路は広々として走りやすい。というか、格別な爽快感ですね。グイグイとダンシングしながら、まるで空を駆けているような気分。
 まずスーパーは開いてないだろうから、コンビニを探すこと国道140号線(秩父往還=彩甲斐街道)を二駅ほど上流にさかのぼる。長瀞駅に到着して、ないことを確認。シーズン中の観光地とはいえ、さすがに埼玉県の山奥である。いまどきコンビニがない町というのも、いいんではないだろうかと思う。
 ところで、この140号線は古来より雁坂峠越えの秩父往還として、武蔵と甲斐の交通の要衝であった山深い街道なのです。じつは今年の大河ドラマ「風林火山」の後半のエポックである信州川中島合戦の直接の原因が、この秩父往還を舞台にした武田一門の謀叛劇だった史実は、あまり知られていないようです。その謀叛劇の主人公は勝沼五郎信元という人物で、彼は武田信玄の従兄にあたる。
 当時の甲斐武田氏は、郡内の小山田氏をはじめ信州の国人衆などを連合的に統制していた中世大名であって、一門衆の勝沼氏(武田信長の系譜)も隙あれば信玄に取って代わる野望を抱いていたとしても不思議ではない。事実、カリスマ的な統制力を持っていた信玄の没後に武田勝頼が近世的な家臣団編成に努力したにもかかわらず、木曽氏(一門衆)や小山田氏は武田を裏切っています。
 御館の乱という熾烈な国内戦をへて国主の地位を獲得した上杉景勝が、織田の包囲網と揚北の国人領主新発田氏の謀叛に遭いながらも、最後まで近臣による戦いの陣形を保ちえたのと比べると、武田氏の滅亡の速度は如何にも早すぎる。その原因は前述のごとく、一門衆および国人領主の連合的な組織からの脱却が遅すぎたという見方も、可能なのではないだろうか。
 さて、その武田氏のいわば御家騒動が、永禄三年(上杉謙信の上洛と関東進攻の年)に起きていたのである。『甲陽軍鑑』の品第三十二に「永禄三年庚申霜月三日、甲州勝沼五郎殿御成敗の儀、前未の年より御目付御小人衆頭を、殊の外馳走有故、此よし廿人衆頭より隠密に言上仕る、横目の御中間頭衆も心付けて、甲州恵林寺の入、中牧という所に待ちて、怪しき者を捕らえたれば、武蔵国藤田右衛門と云う侍大将と、勝沼五郎殿内通有り」とある。
 この条は信玄が出陣する留守をみはからい、甲州東郡に藤田右衛門を引き入れて甲斐を乗っ取ろうとした「逆心の文あらわれ」とつづき、勝沼五郎信元を成敗して彼の配下だった「二百八十騎の同心被官」は跡部大炊助と信玄の弟信廉に授けられた、と締めくくられている。上の文意は、信元が前年から役人を調略しつつ謀叛を企んでいたという意味であるから、永禄二年の段階で謀叛の計画があったと推定できる。
 その永禄二年とは、上杉謙信(長尾景虎)が上洛した年であり、武田氏の配下だった信
濃の有力国人たちが謙信(景虎)に上洛祝いの太刀を春日山城に持参した史実が注目されるのだ。さらに永禄三年に謙信が書いた「関東幕注文」には、秩父藤田の当主と一門家臣の名があり、この時点で秩父藤田一族は上杉謙信の側に属していたと考えられる。
 ところが、なのであります。この時期の藤田氏は、北条氏康の息子氏邦を婿養子に迎えていたのも確かな史実なのだ。つまり、藤田氏は上杉方にも誼を通じ、北条氏の四男(五男説も有力)を当主として迎えるという、二股膏薬を謀っていたことになる。さらに、前述した「武蔵国藤田右衛門と云う侍大将」が、武田氏の一門の謀叛に絡んでいたとすれば、事態はきわめて錯綜したものになる。
 ともあれ、武田信玄がこれを宿敵上杉謙信の謀略だと受け止めたのは、想像にかたくない。それまで三度にわたる川中島合戦では、謙信の攻勢をかわすように翻弄していた信玄も、永禄四年の川中島では通説に従えば、山本勘助のキツツキ戦法を採用して決戦に臨んだ。その理由は勝沼五郎信元の謀叛、信州の海野氏、香坂氏、西牧氏らを事前に粛清したことにもみられる危機感だったのだと、ほぼ断定できるのです。
 秩父の峻険な山々を眺めながら、その当時の藤田一族がどんな思いで自家の存亡を謀略に託したのかと、興味はつきませんね(写真は長瀞=元荒川の流れ)。Photo
 などと秩父の戦国史に思いを馳せながら140号線を樋口まで戻ったところで、コンビニを発見……。目的の卵はゲットしたものの、長瀞も東京と変わらなかったという残念な思い。コンビニの恩恵にあずかりながら、複雑な気分なのであった。
 前日に一升も炊いたという米を、さっそくチャーハンと雑炊に。東松山から来ていた少女たちがイヤがらずに食べてくれたので、まずは合格の味か? ただし、大量に炊いて本来なら美味いはずの米がマズいのは、保温をしすぎた結果ですね。米は炊いたらすぐにあら熱をとり、保温はしないで保管。そうすればベチャつかないし、米の味が劣化することもない。とは、米所の姑の教えです。
 さて、腹ごしらえも終わって帰路へ。相棒もやる気満々というか、自走して帰らなければ他に方法はないのである。宿泊した某別荘前を、来たときとは逆に140号へ(昨夜は最後の激坂で青息吐息だったんです)。帰路は別の道を走ろうということで、熊谷経由の予定でした。でも、われわれらしく「予定」はあくまでも「予定」であって、広域地図をよく見れない性格上、いろいろ迷走するのである。
 まず、川を渡ってしまおう。という段階で、川沿いに東上する道筋を見失う。県道を渡河して、いきなり地図に載っていない森林の中へ。しばらくアップダウンをくり返しながら「森林公園GCへ4キロ」という標識に出会う。私はこれを東松山の武蔵丘陵森林公園の「東松山CC」と思い込んだのであった。国道254のアップダウンを回避して、たやすく東松山市内に抜けられるのではないかと。
 しばらく進むと、その森林公園GCが見えてきました。うーん、まだ東松山じゃないらしいぞ……。さらには、寄居CCの表示が。これって、戻ってるんじゃないかい? もう相棒は、私のナビに不信表明。あとはコンパスが頼り。ほらっ、ちゃんと東に向かっているよと、私。
 軽快な下りの先に接続したのが、国道254なのでありましたっ……(鬱)。しかしながら、当てずっぽうのナビも結果オーライ。どうやら厳しい激坂を回避していたようなのです。それにしても、帰りはなだらかな下りばかり。前日はこの坂を登ってきたのかと思うと、われわれの脚力も大したもんだなと思う。
 昼食は東松山市内の本格的なインドレストラン。美味しかったけど、写真を撮るのを忘れてた。川越市を前に、川島町で254を離れて農道を散策(写真右下)。Photo_2 もう田園は真夏の風景。
 Cr 川越市街内を望むところで、入間川CRへ(写真左)。ここから荒川CRに出て、こんどは左岸を走ろうと私は思っていたんですが……。この入間川CRは土手の下(風景が見えない)を走るんですね。そういうトレーニング的な走りが気に入らないのが私の相棒で、早々に一般道に離脱。工場街を何とか荒川までたどり着き、開平橋を上尾に。あとは県道57を南下するばかりでした。
 荒川沿いのほうがラクだよという私の提案は踏みにじられ、相棒は国道17号線への合流を主張し、その後は外環道(国道298)を東に向かって帰宅という案配。これ、正解でした。写真(相棒が氷で頭を冷やしているところ)のとおり、17 17号線は上を大宮バイパスが通り、登り(南下する歩道)はちょうど日陰なのである。
 というのも、相棒にとっては大型トラックの幅寄せや激坂よりも厄介な、真夏の日差しがふりそそいでいたからなんです。彼女は熱中症を頻発する体質で、ようするに汗をかきにくいから体内に熱が溜まり、私のように汗っかきな夏向きの体ではないのですね。
 その症状はといえば、激しい日差しに不機嫌になる→頬が真っ赤になり、なぜか怒りはじめる→やがて無口になり、突如として座り込む→動けなくなるが、頭部を冷し水分を補給することで、やや快復→水分(冷水や氷)補給の休憩後に全面復活。
 それにしても、なかなかいいぞ国道17号。自転車通行可の歩道も広く、真夏のサイクリングにうってつけですなぁ。
 その後も外環道の川口ジャンクションで北に迷走したり、私が信号待ちで置いていかれたりと色々と散々なこともありましたけど、買い物をしながら日没後にはめでたく帰宅。以上、総走行距離234km(往路110km・卵の買い出し12km・復路112km・消費した飲料水500mlペットボトル12本分)の一泊二日ツーリング、ご報告の次第に候。
 さぁて、今週末は東葛ポタリング。

東葛ポタリング
http://blog.livedoor.jp/toukatsujin/archives/51563567.html

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