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2007年5月29日 (火)

上杉謙信女性説 補論

『北越女人戦記別巻 上杉謙信女性説について』(下記URL)では、死因と不妻帯の合理的説明という観点から論点を構成しましたが、じつは本文に収録しなかった史料もあります。今回はそれらを少々、紹介したいと思う。

別巻の本体(でじたる書房)
http://www.digbook.jp/product_info.php/products_id/8523
別巻の紹介記事(本サイト)
http://07494.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/post_0370.html

 状況証拠の積み重ねが結論を左右する。これは裁判のみならず、文献史学においても援用される方法です。解釈の分かれる史料を状況証拠に「……だが不明」とするのか「……と推論できる」とするのかは、歴史家の研究態度や立場(研究環境)にもよりますが、私の場合は作家なので制約なく当該史料を提供することにしましょう。
 そのひとつは、長尾景虎(上杉謙信)の願文です。

「……人王継代之初神武天皇以来十四代仲哀天皇、后神功皇后、摂政即位元年辛巳治六十九年、春秋百廿載、女帝始祖、当後漢建安六年庚辰年十月辛丑日、皇后召具住吉・諏訪二神而、忽化男形、責三韓・新羅・百済畢、御帰来筑紫、王子御誕生、応神天皇・豊前国馬城郡宇佐八幡大菩薩是也、元慶七年癸卯被移雍州男山石清水、遙至于東海相州鎌倉、勧請其流、号鶴岡若宮八幡宮畢、先代九世之初、征夷大将軍源頼朝公崇之而、奇妙神助有之云々……」
 抜粋した願文は、千葉県妙本寺に伝わる永禄四年二月二十七日付(「上越市史」中世編258 )で、長尾景虎が小田原攻めに先立って鶴岡八幡宮(鎌倉)に奉納したものとみて間違いないでしょう。
 簡単に訳せば、

 神武天皇から十四代目の仲哀天皇の后である神功皇后は、辛巳六十九年に摂政に即位し、百二歳まで生きた初代女帝である。後漢建安六年の庚辰年十月辛丑の日に住吉大社と諏訪大社に詣でましたところ彼女はたちまち男性化し、三韓を征伐して帰朝しました。このときに皇太子が誕生し、大分の宇佐八幡宮に祀られる応神天皇となったのです。元慶七年の癸卯(平安時代前期)に山城国の石清水神社に移され、その後はるか東海の鎌倉に移されました。源頼朝公が鶴岡八幡宮と号して奉ったところ、奇妙にも神の加護があったということです。←こーんな感じ?

 さて、ここで問題なのは「忽化男形」(たちまち男性化した)というくだりです。
 住吉と諏訪の神に祈願したところ、神功皇后がたちまち男性化し、三韓征伐に成功したというのです。これを女である長尾景虎が「たちまち男性化」することを祈願した。と、解釈することも、あながち的外れではないのではないか?
 ただし、この願文は鎌倉(鶴岡)八幡宮の由来を建国神話から述べたて、引用しなかった後段は長尾氏の関東への縁、ならびに自分(景虎)の祖霊を敬う信条を述べていることから、かなり形式的な内容とも解釈できる。いずれにせよ、景虎が「男性化」と記していることは事実なのです。
 つぎに、別巻のなかでも指摘した盟約する関東諸公の夫人に宛てた書状から。
「返々、そのくちてきのひうりにのられ候ヽ、たしかわたにてくびをしめへく候か、女きニ御入候とも、御ふんへつ候へく候、又ゑんろこそて一かさね給、一しほゆわい入まいらせ候、以上、
 此たひのよし重つもりちかひまいらせ候、たヽいまはこうくわ井候、さりながら、いよ~~うちかわるましきよし、けん信も同意におもひまいらせ候、とかくに、よきやうにせいを御入もつともに思ひまいらせ候、めてたくかしく」
 天正二年十一月の「ひろつな御つぼね(少将どの=佐竹義重の妹で宇都宮広綱の正室)宛」の書状ですが、この内容の訳には諸説あります。まずは、私の拙い訳文を。

 かえすがえす(佐竹義重と宇都宮広綱が)敵(北条氏政)の表裏ある口先に乗ってしまい、真綿で首を締められるようになるのは間違いないことですから、女騎(女武将)になられた以上は分別をわきまえられるように。また小袖を送りましたが、お気に召しますかどうか。
 このたび佐竹義重が計算違いした(裏切った)ことで、私も後悔していることです。しかしながら考えを改めている様子なので、私もそれに同意します。とにかく、よい方向で動いていただければと思います。めでたく、かしこ。

 この時期の謙信は↓の記事でみたとおり、関東平定(治安維持)の望みを絶たれる政治情勢に陥っていました。

http://07494.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/post_17ac.html

 そこで、佐竹氏出身で宇都宮氏に嫁した「少将どの」に政治工作を託した。というのが書状の概略になります。さて、佐竹義重と宇都宮広綱が北条側に寝返った件で「彼らも後悔しているはずです」と、通説どおりに解釈した場合は「さりながら(しかしながら)」が訳せないのです。そこで「私も後悔している(落ち度であった)」という新解釈も可能なのではないでしょうか。
 じつは、本題は「女きニ御入候とも」です。これを「女騎(女武将)になられた」と訳すのか、それとも単に「女儀に=女の身であろうとも」とするのか。さらに超訳すれば「私たちのような女であっても」とするのか……。
 ここでカギになるのは、天正年間に宇都宮広綱は病床にあり、少将どのが政務を代行していたという有力な説です。つまり、謙信はもっぱら佐竹義重の政治動向を伺い、佐竹義重の妹である少将どのを通じて政治工作していたと考えられるのです。しかも、少将どのは宇都宮氏の政治態度を決める立場(通説では、のちに宇都宮の尼将軍)にあったのではないか、と。
 とりあえず、上杉謙信が自筆で残した「男体化」(女性説の傍証)と「女き」(女騎か女儀?)について、原史料からUPしてみました。みなさんの解釈は、いかがですか?

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コメント

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投稿: alkzpqgus tmxsjl | 2007年8月24日 (金) 12時20分

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