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2007年5月29日 (火)

上杉謙信女性説 補論

『北越女人戦記別巻 上杉謙信女性説について』(下記URL)では、死因と不妻帯の合理的説明という観点から論点を構成しましたが、じつは本文に収録しなかった史料もあります。今回はそれらを少々、紹介したいと思う。

別巻の本体(でじたる書房)
http://www.digbook.jp/product_info.php/products_id/8523
別巻の紹介記事(本サイト)
http://07494.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/post_0370.html

 状況証拠の積み重ねが結論を左右する。これは裁判のみならず、文献史学においても援用される方法です。解釈の分かれる史料を状況証拠に「……だが不明」とするのか「……と推論できる」とするのかは、歴史家の研究態度や立場(研究環境)にもよりますが、私の場合は作家なので制約なく当該史料を提供することにしましょう。
 そのひとつは、長尾景虎(上杉謙信)の願文です。

「……人王継代之初神武天皇以来十四代仲哀天皇、后神功皇后、摂政即位元年辛巳治六十九年、春秋百廿載、女帝始祖、当後漢建安六年庚辰年十月辛丑日、皇后召具住吉・諏訪二神而、忽化男形、責三韓・新羅・百済畢、御帰来筑紫、王子御誕生、応神天皇・豊前国馬城郡宇佐八幡大菩薩是也、元慶七年癸卯被移雍州男山石清水、遙至于東海相州鎌倉、勧請其流、号鶴岡若宮八幡宮畢、先代九世之初、征夷大将軍源頼朝公崇之而、奇妙神助有之云々……」
 抜粋した願文は、千葉県妙本寺に伝わる永禄四年二月二十七日付(「上越市史」中世編258 )で、長尾景虎が小田原攻めに先立って鶴岡八幡宮(鎌倉)に奉納したものとみて間違いないでしょう。
 簡単に訳せば、

 神武天皇から十四代目の仲哀天皇の后である神功皇后は、辛巳六十九年に摂政に即位し、百二歳まで生きた初代女帝である。後漢建安六年の庚辰年十月辛丑の日に住吉大社と諏訪大社に詣でましたところ彼女はたちまち男性化し、三韓を征伐して帰朝しました。このときに皇太子が誕生し、大分の宇佐八幡宮に祀られる応神天皇となったのです。元慶七年の癸卯(平安時代前期)に山城国の石清水神社に移され、その後はるか東海の鎌倉に移されました。源頼朝公が鶴岡八幡宮と号して奉ったところ、奇妙にも神の加護があったということです。←こーんな感じ?

 さて、ここで問題なのは「忽化男形」(たちまち男性化した)というくだりです。
 住吉と諏訪の神に祈願したところ、神功皇后がたちまち男性化し、三韓征伐に成功したというのです。これを女である長尾景虎が「たちまち男性化」することを祈願した。と、解釈することも、あながち的外れではないのではないか?
 ただし、この願文は鎌倉(鶴岡)八幡宮の由来を建国神話から述べたて、引用しなかった後段は長尾氏の関東への縁、ならびに自分(景虎)の祖霊を敬う信条を述べていることから、かなり形式的な内容とも解釈できる。いずれにせよ、景虎が「男性化」と記していることは事実なのです。
 つぎに、別巻のなかでも指摘した盟約する関東諸公の夫人に宛てた書状から。
「返々、そのくちてきのひうりにのられ候ヽ、たしかわたにてくびをしめへく候か、女きニ御入候とも、御ふんへつ候へく候、又ゑんろこそて一かさね給、一しほゆわい入まいらせ候、以上、
 此たひのよし重つもりちかひまいらせ候、たヽいまはこうくわ井候、さりながら、いよ~~うちかわるましきよし、けん信も同意におもひまいらせ候、とかくに、よきやうにせいを御入もつともに思ひまいらせ候、めてたくかしく」
 天正二年十一月の「ひろつな御つぼね(少将どの=佐竹義重の妹で宇都宮広綱の正室)宛」の書状ですが、この内容の訳には諸説あります。まずは、私の拙い訳文を。

 かえすがえす(佐竹義重と宇都宮広綱が)敵(北条氏政)の表裏ある口先に乗ってしまい、真綿で首を締められるようになるのは間違いないことですから、女騎(女武将)になられた以上は分別をわきまえられるように。また小袖を送りましたが、お気に召しますかどうか。
 このたび佐竹義重が計算違いした(裏切った)ことで、私も後悔していることです。しかしながら考えを改めている様子なので、私もそれに同意します。とにかく、よい方向で動いていただければと思います。めでたく、かしこ。

 この時期の謙信は↓の記事でみたとおり、関東平定(治安維持)の望みを絶たれる政治情勢に陥っていました。

http://07494.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/post_17ac.html

 そこで、佐竹氏出身で宇都宮氏に嫁した「少将どの」に政治工作を託した。というのが書状の概略になります。さて、佐竹義重と宇都宮広綱が北条側に寝返った件で「彼らも後悔しているはずです」と、通説どおりに解釈した場合は「さりながら(しかしながら)」が訳せないのです。そこで「私も後悔している(落ち度であった)」という新解釈も可能なのではないでしょうか。
 じつは、本題は「女きニ御入候とも」です。これを「女騎(女武将)になられた」と訳すのか、それとも単に「女儀に=女の身であろうとも」とするのか。さらに超訳すれば「私たちのような女であっても」とするのか……。
 ここでカギになるのは、天正年間に宇都宮広綱は病床にあり、少将どのが政務を代行していたという有力な説です。つまり、謙信はもっぱら佐竹義重の政治動向を伺い、佐竹義重の妹である少将どのを通じて政治工作していたと考えられるのです。しかも、少将どのは宇都宮氏の政治態度を決める立場(通説では、のちに宇都宮の尼将軍)にあったのではないか、と。
 とりあえず、上杉謙信が自筆で残した「男体化」(女性説の傍証)と「女き」(女騎か女儀?)について、原史料からUPしてみました。みなさんの解釈は、いかがですか?

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2007年5月25日 (金)

江戸川サイクリングロード 松戸~関宿城 その2

 永禄4年川中島合戦の「戦勝」(じつは引き分け)を関東の諸将に喧伝した政虎は、その年のうちに再度の関東越山を敢行する。
 ところが、古河将軍府は翌永禄5年に内部崩壊するのだ。これには諸説あるが、政虎あたらめ上杉輝虎(室町将軍義輝の偏諱であろう)および関東長尾勢、輝虎の同盟軍が古河政権を維持できなかったのは確かで、上杉憲政と近衛前久も越後に引き取っている。このとき、後ろ楯をうしなった足利藤氏は安房の里見氏を頼った。
 その後、足掛け15年にわたり、輝虎が関東に出兵すると関東勢は彼(彼女)になびき、越後勢が撤退すると北条氏になびくといった具合で、ご存じのとおり関東平定は捗々しく進まない。
 最近の研究(藤木久志氏の『雑兵たちの戦場』など)では、輝虎の関東出兵を農業端境期の食糧政策であり、飢えないための合戦だったとする説が浮上している。だが、これも戦争の一側面であって、やはり従来説の関東管領という役職が独自の領土併呑に縛りをかけたと同時に、北条氏の軍事力と政治力を圧倒できなかったのが実相であろう。
 そのかんにも古河公方の足利藤氏は死去し、輝虎は武田氏の駿河攻めに憤った北条氏康と同盟を結ぶにいたるが、氏康の死後はふたたび関東をめぐって争うことになる。関宿城が歴史の舞台に登場するのも、この北条氏との盟約決裂の時期である。
 天正2年、関宿城が北条氏の攻撃にさらされると、輝虎あたらめ謙信は新たに盟約した徳川家康に駿河(武田)攻めを依頼し、上州沼田に着陣した。この年の越山は2月と7月の二度におよび、新田、桐生、秩父、行田、館林、足利などを攻略もしくは攻撃したが、戦略的に得られるものはなかった。
 簗田晴助、小山秀綱、常陸の有力大名である佐竹義重を招いて談合(小田部文書)するも有効な方針は出ないまま、謙信は羽生城を破却して上州の拠点厩橋(前橋)に帰陣。その日のうちに関宿城は落城し、簗田一族は北条氏と和睦したのだった。この関宿失陥によって、謙信は関東の秩序回復をあきらめたとされる(ただし、越山は翌年もつづく)。
 というのも、天正4年には織田勢が加賀にせまる勢いをみせ、謙信にとっては越中・能登・加賀の分国化が火急の課題となっていたのだ。同時に、天正5年末までの北陸平定戦にいたる謙信の政治観、もしくは天下観(他国支配の考え方)が急速に変化する時期でもある。越中・能登の急速な分国化、本願寺・毛利氏との同盟締結がその証左だ。関宿城の陥落は、彼(彼女)には決定的なターニングポイントになった、とみるべきであろう。
 ぎゃくに、謙信にとって15年にわたる関東争乱とは何だったのだろうか。結論への方法を先取りしていえば、上洛天下史観では解きあかせない関東武士(板東武者)史観とでもいうべき、当時の関東武士団の価値観(のちに北条氏が豊臣秀吉に臣下しなかった謎にもつながる)にせまる歴史研究の道筋を立ててみたいと私は思う。

 いま関宿城に立ってみると、江戸川の分岐点には中の島公園という島がある。当時も同じ地形であったなら、ここは出丸(砦)として機能していたはずだ。川幅は利根川のほう
がはるかに広く、城の北辺を天然の要害にしている。ただし、関宿城の本丸廓の立地は土手沿いの延長であって、南西側にどれほどの掘割や城砦があったのだろうか(博物館内の模型には三の丸以南に複雑な掘割があったとされる)。
http://www.chiba-muse.or.jp/SEKIYADO/index2.html
 帰路は向かい風(台風の接近と後で知る)だった。ジッとしていれば微風にしか感じられない風も、風にさからって自転車を漕げば思いがけない逆風になる。往路にすれ違った女性トライアスリートがダウンヒルポジション(両手をまっすぐ前に投げ出し、風力抵抗を逓減する)で風を切っていた理由を、ここで初めて思い知る。
 ブラケットを握りしめてペダリングしても、時速20kmを維持できずに青息吐息……。涼しい顔をして高速巡航で通りすぎる対向車線のロードバイクがうらやましい。それにしても、お城まで平日にやって来る走練ローディたちは、わざわざ擦れ違い間際に顔(ミラーグラスだが)を向けて一礼してくる。まことに礼儀正しい、と私は思う。それも20代と思われる若い人たちが多い。たぶん世の中の悪意に染まっていないのか、その綺麗な装備と同様に純真無垢、かつ何でもこなせる能力の持ち主なのか? 彼らのような若者に欠礼する大人であってはいけないと思う。
 しかしながら、逆風にメゲた私は彼らの礼儀正しさを見送りながら、不遜にもドロップアウト(堕落)したのだった。

 Photo_6 もともと、サイクリングロードをひたすらエアロバイクのようにペダル回転させるのは、好きではない(不真面目な)のである。というよりも、同じ風景に飽きてきた(写真は刈った草を白いビニールで梱包中=家畜のエサか、堆肥化だろうか?)。
 かりに若いローディたちが「脇を失礼します、お互いにがんばりましょう」とか思っても、こっちは「いや、私はツァラーだから、そこそこに走るけど。まぁ、頑張ってね」なのだ。疲れよりも空腹感だった。まだ昼食を摂っていなかったのである。あやうくハンガーノックの危機。さっそくサイクリングロードを下りて県道17号(流山街道)へ。
 力をふりしぼって駆け込んだのは、サイクリングロードを下から見上げるファーストフード風の食堂であった。各種定食500円と安いっ! 数年前に尿酸値を指摘されてから、食生活はEPAとDHAの豊富な青魚系へシフトさせているから、迷わずに「焼き魚(塩鯖)定食」となったのだが、やや期待外れであった。切り身の皮側はほどよく焼けているのに、内側の焦げ加減が足りないのである。
 肉や魚の焼け焦げは発癌物質との医学研究もあるが、ある程度は香ばしさを放つようでなければ台無しである。この店の場合は片側だけを焼いて、内側は伝導熱で火を通したものと思われる。おまけにサラダの量が少ない。と、ここまで悪く書いたので店の写真はUPしないことに。

【氷補給コーヒー作戦・・・頓挫】
 遅い昼食後、あまりの暑さに食堂と同じ敷地にあるスーパーで秘策に出る。氷補給作戦である。単にスーパーで保存用の氷をゲットするだけではなく、夕食用の冷凍食品とともに缶コーヒーを買う。氷で水と缶コーヒーを冷しておき、サイクリングロードの絶景の場所でコーヒータイムの休憩「うーん、たまらん」となるわけだ。ちなみに、この作戦をサイクリングロード以外でやると、自動販売機の見える場所でコーヒータイムということになってしまうのでご注意。その場合も自販機の缶コーヒー(120円)-スーパー(98円)=22円の得にはなるけど。
 ところが、このスーパーは姑息なサービスをしていることが判明した。なんと、保冷用の氷袋には巨大氷の塊が数個(合計1.5㎏ほど)も入れられているではないか。これでは持ち帰れない。ほぼ10割がオバサンの買い物客たちも、誰もこの重たい氷を持ち帰る気
配がない。ようするに「客サービスの一貫として当店も保冷用の氷を準備しております」と言いながら、そのじつはとても持ち帰れるようなシロモノではないのである。仕方なく、買った缶コーヒーはその場で飲んだ。
 土手の上を見あげると、関宿城付近ですれ違ったローディたちがローポジションでクルクルとクランクを回している。相変わらず強風のようだ。そこで、しばらく県道17号(流山街道)を行くことにした。このあたりでは有数の産業道路だけに、大型車両の交通量は多い(写真)。Photo_7 後方信号が赤のときに思いっきりダッシュ→車列が近づくと狭い路肩に退避→ダッシュの繰り返しで国道16号線へ。ここで次なる作戦に取りかかった。

【身体負荷軽減Dバッグ作戦】
 右下の写真はリアキャリアにDバッグを括り付けた状態である。ここまで私は、リアキャリアにウインドブレーカー、背中のDバッグにはスーパーで買った冷凍食品、フロントキャリアに補給用の水、という配置で走ってきた。
 ここでDバッグを背中から下ろし、身に付けている財布や携帯電話、ウインドブレーカーも含めて統括してリアキャリアに縛りつけたのである。これを称して身体負荷軽減Dバッグ作戦という。D
 こう書くと「そんなもん、はじめからキャリアに積んでおけよ」「Dバッグよりパニアバッグ(もしくはリアバッグ)だろ」などと言われそうだが、さにあらず。Dバッグは駐輪時に自転車に残しておきたくないブツ(工具や着脱の簡単なアクセサリー)を持ち歩くため、また買い物をしたりグローブやゴーグルを入れるのに便利でサイクリングの必需品と言っておきたい。最近の自転車アクセサリーは着脱簡単が売り文句のいっぽうで、盗難を考慮に入れてないものが多いのだ。
 そして、わが作戦は帰路に「おおっ、身体が軽くなった」と実感できるリフレッシュ効果なのである。ちょうど、野球の選手が打席に入る前に重たく細いマスコットバットを振ることで、打席の中で打撃用バットを軽く太く感じるのと同じだ。
 16 軽くなった身体でイッキに16号線を西上し、サイクリングロードの付け根へ(写真)。思ったよりも江戸川から離れていたことに驚く。やや風はおさまったかなと感じたが、希望的な観測にすぎなかった。風はますます強くなり、下ハンドルを握ってようやく青息吐息の20km巡航・・・。
 しばらく走って野田で休憩中、シングルギアのトラックレーサーが2台。おそらく競輪選手か実業団クラスの選手の練習であろう。300mほどやり過ごしてから、追いかけてみた。
 ピスト(シングルギア)の標準的なギア比は、44T-16T(2.75=ペダル1回転で後輪2.75回転)である。プロの競技選手ならもっと高めに設定しているはずだが、ためしに私のフロントセンター7段(42T-15T=2.8)を踏んでみる。とてもではないが、膝に負荷が大きすぎて回せるものではなかった。これが向かい風の恐ろしさである。
 それでも、インナーを回すこともなくトラックレーサーをパスして野田橋を渡る。この強い逆風で判ったことは、フロント3枚のツーリング仕様車の威力である。流山橋を過ぎたあたりで、はるか彼方に見えていたロードバイクも松戸でパス。やはり、ツーリングには軽いギアが必要なのだ。そんなことを実感しながら帰宅(走行距離102km)。
 ところで、明日はTour of Japan の伊豆ステージ、明後日は東京ステージです。
http://www.toj.co.jp/
 みなさんは観に行かれますか? 私は明後日、日比谷のスタート地点に自転車で出撃予定です。どこかですれ違えるといいですね。

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2007年5月23日 (水)

江戸川サイクリングロード 松戸~関宿城 その1

 前はHPで日記を公開していましたが、あまり私生活にネタをもとめるのも枯渇してくる。とはいえ、ブログは日記みたいなものだから、宣伝や啓蒙ばかりでは退屈なものになってしまいます。Cr そこで、最近のポタリングの記録を少々(写真は江戸川サイクリングロード)。
 というのも、松戸から上杉謙信関東遠征ゆかりの関宿城まで、思いがけずに往復100kmの遠出となったのだった。天気がよいので、江戸川サイクリングロードを野田あたりまでポタリングのつもりだったけど、これも成り行きである。
 ひとりサイクリングの場合、自分のライディングに合ったペースメーカーが欲しいものだ。サイクリングロードならば、ペースメーカーになってくれる相手には事欠かない。私のバイクは路面抵抗の大きな35mmのブロックタイヤだから、高速巡航で練習中のロードバイクが相手では無理。いきおい高年齢のロードレーサーか、私のと同じようなツーリング車を選ぶことになる。
 そう思いつつサイクリングロードに出た瞬間、バチッと目が合ったというわけではないが、フラットバーロードに乗った初老の方が走っているのを視認。この人に付いてゆくことに決めたっ。勝手に決められた相手は迷惑かもしれないが、おおむね50m~100mほどの距離を置いて視認できる範囲で追走するわけである。ロードレーサーの走行練習のコツに、自分よりも少し速い人に付いてゆく、というのがある。心拍数とケイデンス(1分間のペダル回転数=90回転が最適とされる)をにらみながら走るだけではなく、ある程度の目標を持って走ることでレースに近いメリハリを効かせるわけだ。
 ところが、この初老ライダーさん。けっこう速かった。細いスリックタイヤだから当然なのだけれども、平日にしては人けの多いサイクリングロードを軽快に飛ばしてゆく。歩行者回避にモタモタしている私のほうは、自分のペースを乱しながら懸命の追走(苦笑)。ただし、相手も重たいギアを強引に回したり速度が一定でなかったり。そうこうしているうちに、相手は私を意識しはじめてミラーを見ながら千切ろうとする(笑い)。
 走力の差がハッキリしている場合はそれほど意識しないものだが、ピッタリ付けられると引き離そうとする心理? サイクリングロードに特有の「競争心の交流」とでもいうべき心理状態になる。走りながらサイコンを見ると、優に30km/h台越えの巡航速度になっているではないか。速い、おそるべし……。
 勝負(?)は架橋の下をくぐるスロープであった。ポジションが高いフラットバーロードは、危険回避のために当然にも下りで減速、登りもハンドルに力が入りにくいので減速のまま。こうなると、グイグイとバーを手前に引き寄せられるペダリングでドロップハンドルの優位。というよりも、速度で登るから50m~100mの距離がイッキに縮んでしまい、思わず顔を見合わせる二人(笑い)であった。
 で、こんどは私が先になって走るわけですが、しばらく加速してミラーを見ると、ピッタリと後ろに付いてるではありませんか(「装備はすごいが、走りはたいしたことないねぇ」とでも言いたそうな雰囲気)。仕方なく脇によって先を譲ると、グイグイと引き離されてしまう。私も必死に追走する。いい歳をして、二人とも大人げない(苦笑)。流山鉄橋下のスロープでもう一度抜いてしまい、ふたたび譲る。そうやって走っているうちに、流山を越えて野田市街が見える地点に来ていた。このかん15km以上を休憩もとらずの走行。写真下は野田醤油のシンボル。Photo_3
 まもなく初老ライダーさんが休憩したので、彼に一礼して先をすすむ。ここまで順調だったのは、快適な追い風のせいなのである。と気づいたのは後のことで、野田橋から先の路面の快適さが私を先に誘う。そうだっ、今日は関宿城まで行ってみよう!
 途中、何台かのロードバイクとすれ違う。とくに記憶に残ったのは、親子らしい完全装備のロード二台連れ(親が中学生ほどの息子を気遣いながら走るのが、なんとも微笑ましかった)、逆風をついて果敢にダウンヒルポジションで快走するトライアスリートらしき女性、私が勝手にペースメーカーに任命した茶髪の快速ローディ君。
 しかし、関宿城まであと5kmという地点で不覚にも水が底をついてしまう。これが真夏だったらヤバイことになっていた、とボトルをひとつしか持参しなかったことを深く反省。56 写真は「海から56.25km地点」(関宿城まで5km弱)、江戸川サイクリングロードはこんな風景が延々とつづく。
 ようやく着きましたよ、関宿城に。「(葛西)臨海公園から城まで」がローディの合言葉になっているように、ここは江戸川サイクリングロードの折り返し地点。江戸川と利根川が分岐する場所である。
 ここまで、50km弱の距離を2時間のタイム。私の中学生時代には北九州→国道10号線→中津(大分県)が50km、同じく北九州→国道9号線→国道190号線→常盤公園(宇部市)50kmの距離を4時間以上かかっていたのを考えると、追い風とはいえアルミフレームとサイクリングロードのありがたさを実感させられる。

 さて、関東戦国史に名を残す関宿城(写真)である。城内は入場料200円の博物館になっているので気軽に入ることもできるが、観覧するなら季節ごとの特別展示がお薦めだ。Photo_5
 わが上杉謙信との接点を解説すると、編年と史料は以下のごとし。
 関東管領上杉憲政が越後に下向し、長尾景虎(上杉謙信)に支援を依頼した年は「武蔵国龍淵寺年代記」によれば天文21年、「謙信公御年譜」によれば6年違いの永禄元年である。天文21年の「武州文書」に越後勢の関東出兵がみとめられることから、憲政の下向の時期はともかく、景虎が関東に目を向けたのは彼(彼女)が満22歳の年ということになる。
 だが、越後の国内問題や武田信玄との川中島紛争(第一次~第三次)、さらには二度にわたる上洛と慌ただしい政治過程を抱えていた景虎は、ようやく永禄3年に関東の地を踏むことになるのだった。翌永禄4年、古河公方(関東将軍府)足利藤氏を擁立して山内上杉家を相続し、関東管領上杉政虎(私の小説ではマントラ)と名をあらためる。
 この足利藤氏の舅(義父)が簗田晴助であり、当時の関宿城主なのである。ただし、古河の足利一門は古河城を政所としていたようで、京都から下向した関白近衛前久も古河城に入っている。この年の小田原包囲には越後勢と関東勢あわせて11万5000が結集した(「関東幕注文」「上杉年譜」)とあり、上杉政虎はひととき関東の覇者として君臨したのだった。
(つづく)

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2007年5月21日 (月)

新刊のお知らせ

 新刊『北越女人戦記・第一部甲冑の美少女・第三章「虎千代どの御出陣」』(でじたる書房)が出展されましたので、お知らせいたします。

http://www.digbook.jp/product_info.php/products_id/8562

 長尾景虎(上杉謙信)の初陣には諸説あり、最初の居城(郡司)が三条であったか栃尾であったかは不明とされてきました(軍記書による)。しかし、たしかな史料は『越佐史料』三巻866にある長尾晴景の書状で、栃尾城「古志郡司」が正しいようです。

 本編においても、古志長尾氏の家臣である本庄実乃を後見役に景虎(虎千代)が栃尾城に入城後、彼(本編では彼女)を若輩とあなどった越後中郡の国人領主たちが叛乱する展開になっています。

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2007年5月19日 (土)

イチキュッパ(19800円)で自転車生活を始めよう! 購買編

【はじめに】
 自転車の持っているエコロジカルな機能、かつ生活習慣病の克服を可能にする特性に出会うと、誰もが自転車教の信者になる。自分で改装やメンテナンスができる手軽さ、自動車よりも身近に置いて触れられるフェティッシュな所有感。あらためて言うまでもなく、山野を吹き抜ける風と一体化する爽快な走り。それがもたらす心地よい全身の血流と身体的な快楽は最高です。
 そこで、信者たちは「あなたもぜひ、自転車生活を!」と、これ布教にひた走る。アメリカでは、これを「エコロジカルファシスト」もしくは「フィットネスフリーク」と呼ぶそうだ。私も例外ではないのだけれども、そこは生来遠慮がちな性格(笑い)ゆえに手近な自転車生活をお勧めしたい。
 本格的なスポーツ車であれば、数万円の廉価モデルから百万円越えの高級車まで。フレーム素材やギアコンポ(変速機器)の違いはもとより、ネジの一本にいたるまで千差万別なのである。このマニアックな奥行きの深さが、かえって本格的な自転車への道を閉ざしているようにも私には感じられます。自転車ほど気軽な乗り物はないのに、趣味としての奥行きはイヤになるほど深いんですね。自転車のパーツや装備品、ウエア類なども小ロットゆえに価格が高すぎて、何とも入るべき門が高いのである。
 そこで、誰もが手近で購入可能な「イチキュッパ」(19800円)からの自転車生活をお勧めしたいと思う。

【イチキュッパの自転車】
 ホームセンターや自転車量販店を覗いてみると、この時季は自転車販売にとってはシーズンインの真っ最中だから、廉売車が目白押しに並んでいる。
 いわゆるママチャリが1万円以下。これら安かろう悪かろうの廉売車を売る量販店の薄利多売政策の功罪を、ことさらに批判するつもりはありません。国民の3人に2人が保有というわが国の自転車事情は、誰もが廉価な移動(輸送)手段を持ちうる豊かさの証明でありましょう。ただし、廉価のゆえに安易に放置されたりスクラップ化する弊害は否めないけれども。
 この1万円以下のママチャリは車体重量がおおむね20㎏越えの重量級で、せいぜい駅前やスーパーマーケットまでの用途に限られる。少し遠出して20km、30kmを越える距離を走ってみれば、シングルギアのその重さは肉体への負荷として蓄積される。ダイエットの効果は抜群だとしても……。もっと遠くまで走ってみたいと思うと、1万円を越える価格帯であっても内装3段変速や外装6段変速のいわゆるシティ車に乗り換える、のではないだろうか。ここからが「イチキュッパ」(19800円)自転車生活への入り口なのです。
 2万円以内で買える自転車は大別して、幼児搭載用キャリア(前後カゴ)付きのママチャリ、通勤通学用内装3段変速のシティ車、同じく外装6段変速のシティ車でしょう。ダイエットおよび快適なロングライドは、このクラスでじゅうぶんまかなえます。多少は重たい自転車のほうが、エクササイズにはうってつけと申し上げておきましょう。
 とはいえ、ここでは夢と実りある自転車生活を推奨している立場上、内装3段変速ないしは外装6段変速をば、勧めるにしくはなし(古語調)。シングルギアのママチャリでは登坂(上り坂)の苦労はいうまでもなく、変速ギアによるロングライドの楽しみの幅が狭められます。ほんの少しでもトルク(ペダルの負荷)を軽くして走行の快適さを得ることで、サイクリングの楽しみは増えるのですから。
 そう、ギアを変幻自在に軽く乗りこなせるサイクリングこそが自転車生活の醍醐味なのです! 付け加えていうと、シングルギアの自転車は膝に負荷がかかりやすく、ライディングの疲れはもとより膝の故障の原因になりかねません。

【何を揃えればいいか】
 01_2 写真は私のクロスバイク(もどき=改装してブルホーンバーになった)です。自転車販売大手のサイクルベースあさひのオリジナルブランドで外装7速、スチールフレームにアルミホイールの700ミリタイヤ。本体価格はイチキュッパ(19800円)。ただし、カギ・ミラー・ライトは別売りなのです。
 つまり、同じイチキュッパでもスポーツモデルになると必要最低限の装備を追加しなければならないのである。これが本格的なツーリング車(写真=ルイガノCCT改造車)01_3 になると、本体価格が正規ディーラーの2割引02 (7万円強)でも、スタンド・ベル・カギ・ミラー・ライト類・前後キャリアー・フロントバッグ・コンパス・ボトルゲージ・サイクルコンピュータ(自転車の速度メーター)・ヘルメット・ゴーグル・グローブ(これらは本体と関係ないけど)などを追加注文して、都合12万円也……orz 。さらに上級車になれば、なんと自転車を漕ぐペダルすら付いてないんです(苦笑)。
 ところが、である。内装3速ないしは外装6速のイチキュッパ自転車は、ミラーやサイコンなど以外はフル装備で、しかもマッドガード(泥よけ)とカゴ付きなのだ。スポーツ自転車が高価格化するなかで、これは素晴らしいクラス設定だと思う。
 で、表題の「何を揃えればいいか」なのですが、その答えは「べつに、何も揃える必要はないよ」なのである。
 強いて言えば、登坂をラクにするハンドルまわりの工夫。01_4 写真は「イチキュッパ」ならざる「イチヨンハチ」(14800円)のシティ車のハンドルに、バーエンドバー(1500円)を取り付けたもの。ミラー(1500円程度)とこのバーエンドバーを装備すれば、もはやスポーツ車に劣らないツーリング車として完成される、と私は思う。
 しかしながら、ここでいくつかの質問が飛び交うと思うのだ。以下、想定問答集。

Q:サイクリングロードを走ってる人たちは自転車用のジャージやパンツを着ているようですけど、普段着でもサイクリングは出来ますか?
A:普段着でも出来ます。競技用のジャージとレーサーパンツは、安くても数千円から。通気性や伸縮性の機能はすぐれていますが、初心者には不要かと思います。一般に自転車用のアイテムは小ロット生産なので高価です。

Q:自転車にグローブ(手袋)やヘルメットは必須でしょうか?
A:どちらも必須です(厳然と)。専用のグローブは高価(2000円~)ですが、100円ショップやワークショップでラバーコーティングしてあるものを売ってます。ヘルメットは私もあまり着けないほうなのですけど、公開サイトで問答する以上は、やはり必須アイテムと言わざるをえませんねぇ。1万円前後のものが主流ですけど、こんなのが安くていいかも(筆者推奨品=これでイチキュッパ+4000円or7000円?)。

http://www.cb-asahi.co.jp/image/kokunai/ogk/cliff.html
http://www.cb-asahi.co.jp/image/kaigai/giro/07/transfer.html

Q:パンクの心配やメンテナンスは、どうすればいいの?
A:イチキュッパのクラスでは、タイヤはおおむね36ミリ以上の太いものが主流ですから、パンクの心配はほとんどありません。自転車のパンクの大半は「リム打ち」といって、空気不足のタイヤが段差(歩道など)に突入して、その衝撃で段差とリム(ホイールの金属部)に挟まれたチューブに穴が開くケース。あとは運悪く釘を踏んだり、タイヤ自体が磨耗するケース。
 日常的なメンテナンスは、最寄りの自転車販売店にどうぞ。販売店との付き合い、というか販売店の店主(従業員)との会話も自転車乗りの楽しみのひとつと心得られたし。

その他:ズボンの裾をクランク(ペダルのギア)に巻き込まれないようにするバンド、夜間走行の視認性を高めるフラッシングライト、同じく視認性を高めるリフレクター(反射板)、水分補給のボトルとボトルゲージ。いずれも100円ショップでこと足ります。ほらねっ、自転車生活は思いのほかおカネがかからないでしょ♪
 以上、グレードアップ編・走行編はいずれUPの予定。

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2007年5月16日 (水)

西郷隆盛の本名は「隆盛」ではなかった!? その2

 西郷隆盛の名として一般に知られているのは「小吉」「吉之助」であろう。これらは通称(家内名)であって、小吉→吉之介→善兵衛→吉之助という具合に推移したという。
 元服時には「隆永」のちに「武雄」である。それではなぜ、「隆盛」という名がこんにちに伝わったのだろうか?
 じつは親友の吉井友実という人物による、まったくの勘違いによる産物なのである。王政復古のとき、位階を拝受する手続きのさいに吉井が吉之助の父親吉兵衛の名(隆盛)を朝廷に届けてしまった。これが真相なのだ。このほかにも「西郷三助」「菊地源吾」「大島三右衛門」など、西郷は多くの変名をもちいている。私が荘内南洲会で見た西郷の書の号も「南洲」および「南洲記」であった。西郷隆盛とは、いわば官名なのである。
 かくいう私も、ブログの表題にある名は本名ではない。本館の高輪茂も筆名ならば、横山茂彦も筆名で、正確には旧名(姓名変更の由来は別の機会に)なのである。ほかに久住純という筆名もあるが、筆名を多用するのは物書きとしてはきわめて不利であって、複数の筆名を使うことで世間的な浸透が薄くなる。にもかかわらず複数の筆名を持つ作家が多い理由は、私をふくめて彼らが多ジャンルに手を出しているからで、書き手としての器用貧乏ともいえよう。
 さて、その旧名でありながら通用している横山名をブログに用いたのは、当該作品である「北越女人戦記」が上杉謙信女性説にもとづく論争的な内容を持っているからだ。過去にも論争的な内容のあるテーマではこの名を使ってきたし、業界的にもささやかながら通名だから(?)。いちおうはベストセラーを出したこともあるしね(苦笑)。

「上杉謙信女性説について」
http://www.digbook.jp/product_info.php/products_id/8523

 ところで、上杉謙信も多くの名を用いた人である。幼少期は寅年生まれの「虎」ないしは「虎千代」、あるいは「虎姫」。元服名の「長尾平三景虎」は平氏(長尾)の三郎、呼び名の「虎」に長尾氏の通名である「景」を併せて景虎という意味であろう。第一次上洛ののちに法号の「宗心」、関東管領山内上杉氏の家督を相続して「上杉政虎」、永禄四年末には「上杉輝虎」。この時期から雅号は「藤原輝虎」である。「上杉謙信」と名乗るのは満四十歳の元亀元年のことで、法名は「不識庵」。不識庵とは春日山城にあったとされる大乗寺(遺跡は毘沙門堂や護摩堂、諏訪堂など)の庵であろう。
 ちなみに官名は「藤原関東管領越後守護職山内上杉従五位下弾正少弼輝虎」、法号は「法印大和尚謙信」、諱は「大僧都法印謙信」(高野山)、位牌は「不識院殿心光謙信大庵主尊霊」(信濃善光寺)ということになる。

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2007年5月15日 (火)

新刊「北越女人戦記別巻・上杉謙信女性説について」

お知らせ

「北越女人戦記別巻・上杉謙信女性説について」(でじたる書房)のご案内。

http://www.digbook.jp/product_info.php/products_id/8523

詳しくは↓をご参照ください。

http://07494.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/post_0370.html

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2007年5月13日 (日)

新刊のご案内

 電子書籍「北越女人戦記・第一部第二章・越後林泉寺の女番長」がUPされましたのでお知らせします。

http://www.digbook.jp/product_info.php/products_id/8488

 上杉謙信(女性設定)の少女時代、虎姫一行が関東に諸国行脚する過程を描いた章です。この行脚の物語は、軍記書「北越軍記」「甲陽軍艦」などの伝承記述をもとにしています。

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2007年5月11日 (金)

西郷隆盛の本名は「隆盛」ではなかった!? その1

 歴史&自転車サイトならば、GWのツーリング&史跡探訪報告などというものがあってしかるべきなのだが、今回は法事関係の旅行であった。というわけでブログにアップするほどの中身もない。だが、それではブログを開いている意味が薄れてしまう。
 そこで、旅行の目的とはべつにセッティングされていた小旅行と思いがけない史跡訪問を少しばかり。
 急遽決まった法事(正規の法要を前倒しにした連休法事=縁者が集まりやすい)なので予約もなく、交通手段は増発便の深夜バス(トイレのない観光バスを代用)とあいなった。眠れれそうもないのでウイスキーを買って池袋西口を11時に出発。目的地の山形県酒田まで臨時増発分をふくめてバスが9台、その出発光景は壮観である。首都高から東北自動車道は何度も走った経験はあったが、見事な夜景に感嘆……! キューポラの川口市が工場街から高層マンションのベッドタウンに変貌したのにも驚いたことはあるけど、さいたま市も凄いね。林立する高層マンションの風景は、まさに光のページェントだった。
 途中、羽生Pでクロカン車に搭載されたトレックのロードバイクを活写(写真)。0705030040 那須高原あたりでヒルクライムをやるのだろうか、車内には折り畳みのミニベロも積んであったですね。それにしても、代用観光バスでの深夜便は悪くなかったです。これが深夜バス専用車であればトイレ休憩が省略されてしまい、旅というよりも輸送される気分になってしまうものなのだ。
 法事の報告は略して、その日のうちに飛島(とびしま)へ。あまり知られていないこの日本海の孤島は、海釣りとバードウォッチングの名所である。私は実家が北九州なので、海峡連絡の船や瀬戸内海航路には何度も乗っているのだが、外洋航海はじつは初めての体験。斜めから向かってくる大波に揺られて、ニュー飛島号(連絡船=全長40m弱・幅10m・223 トン)は木の葉のようにダッチロールを繰り返す……。予測不可能なジェットコースターの気分だったけど、私が船酔いしない人間であることも判明(窓側客席の人たちは大半が中央席に避難し、ゲロゲロ状態も多数)したのであった。可愛いイルカの併走が眺められて、とても楽しかった。
 最近の観光地の例に洩れず、飛島は乗り捨て自由の無料レンタルサイクルが完備してある。まずは状態のよい自転車を物色と思っていたところ、旅館の迎えの人が「ウチの自転車を使ってくださいよ。ずっと高級車ですから」だと。訊けば、アルミフレームに外装6段変速なのだという。ところが、この高級車がとんでもないシロモノだったのである。
 本土から数十キロの孤島とはいえ、飛島はひとつの小山である。小山だからこそ島として成り立っているわけで、東の海岸線(全体は周囲12キロ)以外は鬱蒼たる森林。重たい自転車だなぁと思っていたとおり、傾斜10度の坂道であえなく頓挫した……orz (写真)。0705041542
 推定20㎏はあるんではなかろうかと思われるこの自転車、たしかにアルミフレームなのだが、信じられないほどチューブが太いのである。36mmタイヤでこれほどまでに惰力がないのも重さのせいであろう。たぶん、アルミフレームを発注したメーカーは軽量を見越して外装6速のギアを付けたものの、納品されてきたフレームに驚愕したことであろう。いわく「何じゃこりゃ、飛行機の車輪のシャフトに使えるんじゃないかい?」と。その代わりに、ダウンヒルではその重量をいかんなく発揮し、頑丈なアルミフレームの感覚を堪能させてもらったけれども。

0705050830_1  写真は飛島の岩館。岩場の上に石塁が施されていることから、中世水軍(海賊)の拠点ではなかったかと思われる。残念ながら、たしかな伝承や史料は皆無である。日本海の荒波をものともせず、風が頼りの小舟で海を我が物とした先人たちには畏敬の念を抱く。

0705041627_1  写真は荒崎という景勝地から西に沈む夕日、その下に波間をさまようようなイカ釣り舟(よく見えないけど、いい風情であった)。
 翌朝、詩人(俳人)斎藤慎爾氏(深夜叢書社主)の記念碑の除幕式で慌ただしい港を出て酒田へ。夕刻、南洲神社を訪ねる。というか、トイレを貸してもらおうと立ち寄ったのだが、荘内南洲会の事務長氏の案内で南洲会館を見学することに。
 南洲とは西郷隆盛のことで、戊辰戦争のおりに佐幕派の荘(庄)内藩が西郷のはからいで安堵されたのを契機に、西郷の薫陶に帰依する庄内人たちが業績を祭ったのがその縁である。のちに西南戦争の時には、庄内から西郷に援軍が馳せ参じたのは有名な話だ。
 ところで、その西郷隆盛の本名が「小吉」など多数あり、隆盛という名は西郷の父親の名前であったと、事務長氏はこともなげに言う。そう、西郷隆盛は「西郷」とか「南洲」と署名しているものの、みずから「隆盛」と署名した文書は皆無なのである。(つづく)

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2007年5月 2日 (水)

上杉謙信女性説

 明日から急遽の旅行(バカンスにあらず)とあいなったので、GW明けにUPする予定だった記事を急遽……。
 おそらく休暇あけ数日を待たずに、画像の『北越女人戦記別巻・上杉謙信女性説について』が電子出版サイト↓で読めるようになるはずなので、その紹介。

でじたる書房
http://www.digbook.jp/

 で、その別巻の構成(章題)は、

・八切止夫説の検証
・軍神像を創作した江戸期の軍記書
・時代が必要とした虚像の謙信をあばく
・直筆書状と願文にみる謙信の実像
・謎に包まれた戦国大名上杉謙信
・いまだに不明な謙信不妻帯の謎
・真言密教の戒律も決め手にならない
・謙信飯綱修験道信仰の真偽
・男色説も女性説も推論にすぎない
・女性説しか合理的説明はできない
・伝説の中の姫君たち
・女性恐怖症説? も成り立たない
・上杉謙信の肖像画について(画像3点の比較検証)

 執筆しながら付けた小見出しなので、何だかバランスも語呂も悪い(苦笑)。前半が八切説の検証から江戸時代に創作された軍記書の検討まで、最新の研究を援用した内容Photo_2に。八切説のエッセンスは『当代記』(江戸初期)に記載がある謙信の死因を「大虫」(婦人病)とするところなのですが、当方は一次史料に依拠して「虫気」説(上杉景勝の書状三通)を採用。文献史学の原則にしたがえば、この「虫気」説に反駁可能な研究はありえないと思う。
 以下、抜粋。

「謙信が旧暦天正六年三月九日、午の刻(昼の十二時)に春日山城の厠で倒れたという伝承(死去は四日後の三月十三日)をかんがみても、当日は新暦に換算すると北国の越後にも若葉が芽吹く四月二十五日なのですから、居室と厠の気温差などで不慮の脳卒中を生じたとは考えにくいものがあります。いっぽうで、腹痛や産気・陣痛で意識を失って昏倒する症例というのも、きわめて稀なケースと云えましょう。このように、どちらが真実の死因だったのか判別しがたいのです。
 そうであれば、予断と推論を排除して史料を素直に解釈するしかありません。
 ことさらに『当代記』の「大虫」(婦人病死因説)を検証するまでもなく、確実な原本史料とされている上杉景勝書状(前出の三通)にある「去十三日、謙信不慮之虫気不被執直遠行」(去る三月十三日、謙信が思いがけない腹痛ないしは産気・陣痛を伴う病で、持ち直すことなく遠逝しました)をそのまま採用することで、通説の脳卒中説は覆されてしかるべきと考えられます。
 生涯独身を通し、満四十八歳で逝去した謙信が妊娠(産気・陣痛)などの症例(妊娠中毒症?)で身罷ったとは考えにくいので、史料に確実な死因とされている「虫気」(腹痛を含む病の総称)を勘案するに、婦人病のほかにも消化器系の重大な疾病などが可能性として排除できないと云えましょう。ほかには暗殺説もありますが、厠で昏倒してから四日後に逝去したという伝承を揺るがせる傍証もないので、この史料的な裏付けのない俗説は排除されてしかるべきでしょう。」

 後半は謙信不妻帯の史実について、諸説を検証してみました。亡き史学界の大御所桑田忠親氏の戒律説、浄土真宗嫌悪説を批判し、俗説ながら定説のごとく触れ回られている飯綱修験道信仰説の根拠を軽ーく粉砕(失礼)。
 以下、抜粋。

「桑田氏が謙信不妻帯の理由として力説する「(戦国武将は)戦勝のためには、あらゆる手段を講じた。あらゆる手段とは、一口にいえば、戦略戦術を練ることだが、また、人知の到底およばないところは、神仏の加護に頼るほかないので、神仏を信仰し、土地や財を奉納し、戦勝を祈願したのである」という主張のとおり、じっさいに謙信は神仏に戦勝を祈願し、多数の願文を寺社に奉納しています。
 けれども、その願文の中の一通にも「邪淫戒の履行」「不妻帯の誓い」「不犯の修行」などを意味する記述はありません。願いがかなったら看経をする、壊れた寺社を再建するなどの誓いはあっても、不妻帯・不犯をもって戦勝祈願した記述は皆無なのです。したがって確実な史料の上では、神仏への戦勝祈願による不妻帯説は頷けません。これら史料の裏付けがない仮説は、論者の自由勝手な推論と見做すほかないでしょう。
 なお、桑田忠親氏は収録本(『戦国史疑』講談社文庫)の別稿(戦国史、謎の多い事件と人物)で「一度も妻をめとらず、側室もなく、したがって実子も儲けなかった。……まことに不可解な身の処し方をした……謙信は、男色家で女ぎらいであったとか、不能者であったとか、男でなく女であったとか、さまざまな異説が唱えられた。このうち、女人説は、異説中の奇説であろう。しかし、残念ながら、謙信が男であったことは、あらゆる角度から立証される」としながら、これもまことに残念ながら「あらゆる角度から」のひとつの角度からも男性説(女性説の否定)を立証されておられません。
 同書には、南条範夫氏の『三百年のベール』や隆慶一郎氏の『影武者家康』などに連なる元本の『史疑徳川家家康事蹟』(村岡素一郎氏、明治三十五年刊)に対する詳細な史料批判もあり、その表題にたがわぬ豊富な内容にもかかわらず、八切説については一顧だにしない有り様なのです。
 ところで、桑田氏が説かれる「あらゆる角度から立証される」にも、おのずと制約があ
るのは云うまでもありません。江戸中期以降に成立した軍記物語(大半がフィクション)に典拠しないかぎり、桑田氏においても「謙信が男であったこと」の論証は唯一無二、謙信が男性名だった史実をもってしか「立証される」ことはないだろうと、不遜ながら著者は思料します。
 謙信の男性名から男性であることを前提にしてしまうと、たとえば『甲陽軍鑑』の訳書(吉田豊氏、徳間書店)にみられるように、武田信玄の勝頼への遺言とされる「謙信は、たけき※武将なれば、四郎わかき者に、こめみする事有間敷候」(原文)を「謙信は男らしい武将であるから、若い四郎(勝頼=引用者注)を苦しめるような行ないはするまい」
(訳文)などという具合に、恣意的な誤訳を冒してしまうのです。
 もとより、謙信が男性名であるからこそ女性説(異説中の奇説)が唱えられるのであって、男性名をもって謙信が男性であること(通説)を所与の前提にしてしまえば、およそ議論が成立しないのは言うまでもありません。戦国時代に男性名の女性当主が存在した史実は、前述したとおり井伊直虎(井伊直盛の娘)の例に見られます。」

 ざっと全体としてみると、反論の余地がないほどガチガチの「上杉謙信女性説」に仕上がったのでないかと思う。基本コンセプトが男装説(男性名で性別を秘匿)なので推論の部分には再考・再論の余地があるものの、一次史料の研究が直筆分析(筆跡鑑定)に立ち至るまでは第一線の歴史研究者も認めざるを得ない(とりあえず無視するww)のではないだろうか。などと、勝手に満足している私(笑)。
 別巻の電子出版頒価は、四百字詰め原稿用紙換算100枚弱を500円なり。けっこう高いと思われるかもしれないけれども、それなりに膨大な史料代と労力を注ぎ込んでいます。本編の『北越女人戦記』も、一章分300円(一巻が全5章で1500円、消費税抜き)はリアル本の単価に準じた価格だと思ってください(汗)。いちおう私も、プロ作家なのでして……orz
 それでは、短期休暇(兼所用)に入りますので。連休明けに、再会っ!

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『北越女人戦記』第一部 長尾虎千代の巻 甲冑の美少女

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2007年5月 1日 (火)

自転車三昧

01_1  昨年の夏から、生活の中にサイクリングを復活させた。流行りの「メタポ症候群」克服というか、深刻な生活習慣病との闘い……。いや、空腹感のない食欲減退への措置なのである。ディリー20km~30km、週一で100 km超えのロングライド。
 その結果は、食欲増進に反比例した体重7㎏減(適正体重化)・血中中性脂肪の標準値化・血圧の標準値化などの成果。ご同輩諸氏よ、野菜の適正摂取と自転車さえあれば健康生活への道はたやすいぞよ。一日あたり消費2000kcal超えと同時に、念願の禁煙も完全達成なのであった。
 高速ロードバイクでの自転車レース、ミニベロやクロスバイクでのポタリング、街乗りピスト(固定ギアバイク)がブームになっているのは、じつは最近になって知ったことでした。当方はブリヂストンシャインスター、ユーラシアなどのツーリング車全盛世代(歳バレ)であれば、知り合いの自転車雑誌編集者が言う「自転車出もどり世代」ということになるのだろうか。
 当初は量販廉価モデルのクロスバイクに乗って鈍(ナマ)った貧脚を慣らしていましたけど、ロングライドで手首に異様な負荷を感じてドロップハンドルへ。何だか小学生時代~中学生時代とまったく同じような流れなんですねぇ……(苦笑)。で、ルイガノのシクロクロスモデル(自転車のクロスカントリータイプ)にフロントキャリアを付けてツーリング仕様に仕上げました。骨董品なみのパーツをストックしている街の自転車屋で物色したマップケース付きフロントバッグには「97……」と製品コードがあるので、たぶん10年前のものなのでしょう。古っ(笑)。こうして復活したわが自転車生活は、いたって快適(爽快)です。
 ところで、長年のママチャリ歴をふくめれば私の自転車道も数十年になるわけですが、本格的なスポーツ車は久しぶりのこと。まずは車体の軽さ(11㎏)に驚き、STIレバー(ブレーキとギア変速を共有)の利便性に驚愕。ラクに35km/hの高速巡航にはヘルメットも必要となったのでした。35c(mm) のブロックタイヤでこの速度なのだから、サイクリングロードを高速走行するロードレーサーは軽く巡航40km/hを超えるんだろうなぁ(ちなみに、実業団クラスのロードレースでは60km/h超えも普通。自転車の体感速度は、自動車の1.5 倍~2倍なのだとか)。
 さて、本題はここからなのです。
 各自治体で路面電車(トランジット=下記URL)が復活し、ベロタクシー(同じくURL参照。ベロ=VELOはイタリア語で自転車の意味)の運用が始まるなど、ポスト自動車交通に向けた代用エコロジー交通システムもささやかながら立ち上がっています。自転車事故対策に自転車の歩道走行を検討していた警察庁も、自転車走行レーンの整備に180度方向転換したのが、この3月のこと。

トランジット
http://www.mlit.go.jp/road/road/yusen/transit/index.html

ベロタクシー
http://www.velotaxi.jp/

 枯渇する石油資源代用エネルギー対策と地球温暖化防止策は、もはや新世紀の流れというべきでしょう。時代は自動車から自転車へ? このフレーズはまことに唐突ながら、交通手段の地殻変動がひそかに進行していると予言しましょう。
 主流派経済学の学説にしたがえば、自動車産業は土木建築産業とともに技術革新と大量生産大量消費(資本の有機的構成の高度化)で二十世紀の経済を支えてきました。大規模工業に資本を集中させるという意味では、戦争経済の延長(代替え)でもあります。つまり、工業技術力を最大限に活性化させることで国民経済を高め、高度な経済成長力をもたらす。生産性の向上と富の再配分(フォード主義)が両輪として経済効果を高める、いわば二十世紀的な活力の源泉だったといえましょう。
 ところが、際限のない大規模工業生産(スクラップ&ビルド)は資源の制約に縛られます。在来の技術力で石油が枯渇すれば、たちどころに経済成長も終焉。のみならず、自動車産業の場合は地球温暖化や生活環境の劣化、人間の運動不足による医療費の高騰。交通事故死による人的資源の喪失、などなど……。石油代替えエネルギーとしてバイオ燃料が導入されましたが、地球上の七人に一人(8億人以上)が飢餓に苦しむ同時代に、貴重な食糧資源をガソリンの代用にするのはいかがなものでありましょうか。
 膨大な資源喪失の対価としてユーザーに付与されるのは、個人的に安楽な移動手段を確保する反面でもたらされる不健康。運輸システムの高速化の反面では、つまらない全国一律の商品流通に。快適なクルージングの反面で、騒音と環境劣化……。
 というわけで、私も自動車を手放しました。たいそうな理屈や能書きではなく、自転車
生活を復活させたことで、乗らなくなっただけのハナシなんだけど。健康と筋力回復は結果オーライ。自転車で史跡探訪の旅なんか、してみたいものです。何だか、やや硬派は自転車ブログになっちまった。……です。

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